【騎士団長殺し】かもしれないが多すぎるかもしれない【遷ろうメタファー編】

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jiru4690.hatenablog.com

 

 

「若くして伝説になることのメリットはほとんどありません。というか、私に言わせればそれは一種の悪夢でさえあります。いったんそうなってしまうと、長い余生を自らの伝説をなぞりながら生きていくしかないし、それくらい退屈な人生はありませんからね」

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

     小説家としての村上春樹は、デビューから数年も経たないうちにベストセラー作家となり、今尚その名を世界に轟かせている。そこで、作中に出てくる上述のセリフを自分に当てはめているわけでは、まさかとは思うが、ないだろう。
     確かに、最近の作品の中で言えば、本作はどちらかと言うと良作の部類に入るかもしれない。いや、むしろ90年代以前の過去の作品と比べること自体間違ったことなのかもしれない。過去の作品が時代を追うごとに輝きを増すのは当然だし、今というこの時代に新しく出たものは、やはり色眼鏡で見られてしまうものだ。
     本作の主人公が、肖像画を“目の前の対象ではなく自分の世界で描いた”ことに重きを置いて描く、ということを、物語の枢軸に置いたことの裏側には、昨今の村上作品そのものを、著者が自己批評でもしているのか、と思ってしまうのは考えすぎだろうか。やはり日本人の現役専業小説家の中では世界でトップクラスの知名度を誇る著者は、苦しい執筆生活を強いられているのか。
    いや、それはちょっと違う気がする。
    著者がよく小説、エッセイ問わず口にする「小説家になるには才能が必要」。特に今作は芸術家が主人公であるがゆえに、それぞれの人物の“生まれ持った能力”というファクターの比重が多作品より強くのしかかっている。
    村上作品の主人公と言えば、今風な表現だと下手すれば「陰キャ」扱いされてしまうかもしれないあの特徴的な人物達。なのに何も不足しない、必要最低限以上のものが手に入る、やや非現実的な構想も然り。おまけに、努力すれば簡単に望むものを手中に収め、事件や事故などなく、あったとしても些細な事物として流してしまうその精神。
    本作は、村上春樹の集大成なのか?

    それもまた違う。
    ただ、これまでの作品に沿った形で、セルフパロディと言えるほどに本文の特色がかなり濃く出ているのは、即物的である反面、いつにも増してわかりやすくて天晴とも言える。
     著者は過去の栄光にしがみついていないし、ましてやファンサービスに溢れているわけでもない。しかし、“目の前の対象ではなく自分がかきたいように”、すなわち、「作り手による魂が込められている」と言えば聞こえはいいが、どうにも読み手を意識しないままついにここまで来てしまったか、という驕り高ぶった精神が見え隠れしているのも否めない。それとも、氏の他のエッセイを見る限り、最初からそんなお人だったかな……

 

    さて
    この【遷ろうメタファー編】では、更に「騎士団長」と「主人公」の関係がより深くなり、主人公はある重大な決断をする。前編で、うんざりするほどに並べられた謎だらけの現象や事物、タイトルも、ある程度まで伏線を回収する。「顔なが」などの正体も明らかになる。(また、あくまで余談ですが、後半に出てくる「顔のない男」って、まるで過去作の佐々木マキの描いた表紙絵を想像してしまいました)。
    何より、メタファーという言葉には、彼らのやり取りだけで済ませることのできない、村上春樹作品自体を表現していると言っても良い力がある。デビュー作から、今作に至るまで、いつもこのメタファーの、更にそれを覆うメタファー的なテキストで、今作は溢れていると言っても過言ではない。
    また、村上作品の主人公からはしょっちゅう、大事な人が離れていったり、行方不明になったり、最悪死んだりする。氏がこの作品を単発のものとせず、自分のこれまでの小説に対して、自分に騎士団長の存在のような意識の中の力を働かせたのだろうか。
     そこで、これまで氏の作品を読んできたことのある人は、過去の登場人物達の言葉を思い浮かべることがあるかもしれない……

 

小指のない女の子:「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの? 一つ忠告していい? 治さないと損するわよ」
羊男:「あんたが自分のことしか考えないから、いなくなっちゃったんだよ」
緑:「それはあなたが『他人にどう見られてもいい』と思っているから、一部の人は頭にくるんじゃない?」
笠原メイ:「考えなさい、考えなさい、考えなさい」

 

    最後に
    私は今回の作品にあまり強烈な“何か”を感じることが出来なかったと前回の記事に書いたし、やはり今でもそう思う。鏡が物理的な反射をしているからといって、小説が読み手の心を反射しているわけでもないのは当然のことだし、そこまでの魂をこの作品に感じることも出来なかった。
    しかし、ある意味では本作は、村上春樹のテイストがなされているというだけでなく、村上作品全体としての特徴そのものが入っていて“それらを楽しめる人には楽しめる”ものではないかもしれないし、あるいはそうではないかもしれない(汗)。
     このテイスティなテイストは、今後も続いていくのか、それとも全く新しい路線をどこかで生み出すのか。


    騎士団長殺し、いや、村上春樹作品は、これで終わるわけでは、あらない。
    まだまだ続く。