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一粒の麦、
地に落ちて死なずば、
唯一つにして在らん、
もし死なば、
多くの果を結ぶべし
(新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節)
小説の人物、特に主人公が、読者に対して感情移入させてくれる役割を果たすのであれば、これほどまでに素晴らしい思いにさせてくれる物語を、少なくとも私は他に知らない。
主人公の永野信夫は、生来から愛と信仰に満ち溢れていたわけではない。幼少期は祖母が仏教徒、その祖母が亡くなってから目の前に姿を現した実母がキリスト教徒と、少々複雑な家庭環境に身を置いていた。また、自らが士族であることに対してら町人の子を差別するなど、決して生まれながらにして清廉潔白だったわけではない。
ストーリーが進むにつれて、主人公はキリストの教えに沿って、人生を歩んでいく。そして、最期は自己犠牲のもと、とある事故で多くの人の命を庇い、死に至る。
主人公の一生を書いたこの小説は、ともすればキリスト教に身を捧げた青年の話、などと捉えられてしまうかもしれないが、それは違う。
主人公は、決して自らをキリスト教の教えに邁進し続けたり、ただ従った訳ではない。ましてや本書はキリストの教えを布教するためのものでも決してない。むしろ宗教とは違う点において、人間がどのようにして自らを改めながら生き、あらゆる人と接していくかを書いた、人生のあり方を登場人物及び読者に問う小説なのである。
自らの傲慢さ、卑屈さを常に自覚する。この一連の行為のなんと難しいことか! その業が強ければ強いほど本当の自己覚知に至ることは難しくなるし、逆に自らに足らぬ部分があると思いつつ生きている人もまた、一つ一つ、救いのある道(死)へと歩を進める。両者は全く違うようでいて、同じ人間でもある。
それでもこの小説は問いかける。人間の生きる道は何故一つではないのか、そしてすべての人間における自らの存在意義とは何か? と。
傍若無人に生きることをありのままの自分とし、周りに迷惑をかけたり盗みを行う人間。信仰のもと罪を赦す人間とどちらが良いか、という教えは、この本には書かれていない。
冒頭で、子供とは言え差別の意識をもっていた主人公は、肉体と年齢の成長と共にあらゆる自分の中の意識や行動意義と向き合い続け、自分の生涯における答えを出す。
人というものは自分と人を比べる。
もちろんこの小説は、ただ自分のために生きろ、と言いたいのではないし、物語や主人公に対して「共感出来れば(出来なければ)◯◯である」ということを問いたいのでもない。何故自分が生まれてきて、どのようにして死んでいくのか。本当の答えはその人の数だけ存在するし、答えを見つけることも非常に難しく、たとえ一生をかけたとしても、誰にでもわかるとは限らない。
だからこそこの本は語る。他者や比較対象、誰それの教えに盲信するのではなく、一生をかけて人生を探し続けることの大切さを、自分自身に教義する意義を見出しつつ、生きることは何よりも尊いことだと。
少なくとも私はこの素晴らしい小説にそのような印象を抱いた。
最後に
本書のような小説を教えてくれた、このブログにコメントを下さった方に、この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。