原作【フランダースの犬】を読んで

            <p>    【<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%B9%A4%CE%B8%A4">フランダースの犬</a>】はイギリスの作家ウィーダによって書かれた少年文学であり、その原作はアニメ版よりも更に救いがない。</p>

 

フランダースの犬 (新潮文庫)

フランダースの犬 (新潮文庫)

 

 



    舞台は19世紀のベルギー。フランダース生まれの大きな犬パトラシエ(村岡花子訳のパトラッシュの名前)は金物屋に死ぬ寸前までこき使われ、地面で倒れてたところを主人公ネロ少年の祖父、ジェハンに拾われ、救われる。2人は、非常に貧しい生活を余儀なくされながらも、地上の幸福も天上の幸福も望まず、パトラシエと一緒に暮らすことだけを望みながら生活を送っていた。貧困の運命に苛まれた代償として与えられたものとして、天才的な絵の才能が与えられていたネロは普段から、あらゆる植物や動物を描き続けていた。画家を目指しながら、教会の聖母堂に飾られているルーベンスの描き遺した「十字架に架けられるキリスト」と「十字架からおろされるキリスト」の二つの栄えある作品を見ることを夢見ていた。


    ご存知の通り、この作品では、主人公ネロに、次々の不幸が訪れる。絵のコンクールに出品するための絵を描き入選すること、裕福な百姓の娘アロアとの仲、ジェハン爺さんとの幸せな生活、牛乳運びで得ていた僅かな収入、それらを次から次へと失っていった。風車小屋に家事があった時も、普段からネロのことを娘に近づく憐れな乞食だと決めつけて近づけさせまいとするアロアの父・コゼツによって酷く罵られたり、村八分にするように仕向けたり、最悪の仕打ちをした。
    キリストの降誕祭の数日前ジェハン爺さんは死に、家の家主も、ネロが家賃を払えなくなると容赦なく立退くようにと命じる。絵のコンクールも落選した。ネロはパトラシエ以外の全てを失う。
    そこから先は、アニメ版とほぼ同じである。天使に連れ去られるシーンはないが、ネロがコゼツの落とした金を拾って届けるところ、コゼツがそれまでネロにしてきた仕打ちを反省するところ、そしてアントワープの大伽藍でネロとパトラシエが息をひきとるところ、など。

 

    その他のアニメ版と原作との相違点や、この作品の他国での評価といった内容はWikipediaなど別のサイトに詳しく書かれている。

 

    私がこれを読んで思ったのは、たとえばこの物語においては「貧困」と「愛情」、水戸黄門で言えば「悪」と「成敗」、鼠小僧で言えば「犯罪」と「正義」という二律背反を抱えているものが、日本では好まれるのだろうかということである。恋愛ものでも「男と女」「成就と破局」、少年漫画でも人気キャラが「勝利」することもあれば「敗北」することもある。
    つまり作品に白黒はっきりつけたがる、もしくははっきりと異なるものが混在している二元論が主要テーマに備わっていることが、日本人にとってわかりやすい作品だと言えるのだろう。
    最もこの作品の場合、死に至るまでネロとパトラシエが虐げられてきた経緯と、美談はもとより、ラストのエンディングシーンが有名ではある。このエンディングに泣けるという人は多いが、2人が徹底した不幸と僅かな幸福の狭間に生きているという過程がなければ、これほどまでに有名な作品にはならなかっただろう。実際、海外では、ただの鬱展開が続いて終わるだけの駄作、という評価もあるようだ。

    物語の読者は、その作品に共感したり、自分の言いたいことを代弁してもらったりすることをとても好む。先述の水戸黄門なら、民に悪政を敷き邪なことを企む悪代官が成敗される、鼠小僧で言えば、悪いことをした奴らから金を盗み庶民に還元する。多くの人にとってカタルシスを得ることの出来る勧善懲悪的な話が、王道と捉えられやすい。
    フランダースの犬の場合、勧善懲悪とは言い切れないが、貧困の中で育つ愛情や、読者からの同情が得られる作品とも言えよう。
    また、それらについて共通するのは、いわゆる“清貧”という思想である。つまり、貧しいものは清く、金持ちは悪いことをしているという考え。

    ただ、やはり、一番最初に書いた通り、私はこの作品は徹頭徹尾救いがない作品だと思っている。清貧だろうと愛情だろうと、人間は生きていかなければならない。だからこの作品のエンディングがグッドかバッドかはどうでもいい。ネロとパトラシエが死んだ後にこの世にとり残されたのは、ネロを村八分にしたヤツらばかりではない。この本の読者やアニメの視聴者だってそうなのだ。