【ちーちゃんはちょっと足りない】阿部共実作品【死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々】その2

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 さて、前回に引き続き、阿部共実氏の作品……なんですが恐れ多いことが一つ。

 【ブラックギャラクシー6】だけは買って読んでいません(汗 

 あれだけ氏のファンとか言っておきながらすみませんm(‐ ‐)m たった今アマゾンでポチりましたのでそれで勘弁してください。

 

 さて、2015年の「このマンガがすごいオンナ編」の1位に颯爽と輝いた【ちーちゃんはちょっと足りない】。その内容は、まあ【足りない】なんていう単語がつくくらいなので、その時点で不穏な空気がムンムンするし、実際中盤以降はそのような胸苦しいままの展開で話が進む。氏の前作である【空が灰色だから】の辛辣な話に、ページ数と演出をよりブラッシュアップさせた長編作品で、90年代に高視聴率を叩きだした青春ドラマのような作品である。

 一応、主人公の「ちーちゃん」と友人である「ナツ」が二人歩きながら輝いて見えるような終わり方をするが、ここまで読み進めてきた人にとって、これを純粋なハッピーエンドととらえる人はいないと思われる。いわば【空灰】のような奇妙で超常的な要素を完全に取っ払って、読者に主人公が犯した罪や後日談を想像させる余地を含んでいるため、かなり後味が悪いものとなっている。その分、昭和の文学作品並に強く、読者に人生の難題を突き付けるようなテーマも併せ持っているため、内容が深く心に刻まれる。

 

 さて、新刊の【死に日々】。まともにタイトルを書いたらこの記事のタイトルも“いかつい”長さになってしまった。

 基本は【空灰】のようなオムニバスで、構成も大体同じ。ただどちらかと言うと、初期作品集の最後の3つの短編である「あつい夏」「デタジル人間カラメ」「大好きが虫はタダシくんの」と似たようなベクトルの漫画が多い。

 1巻はやや実験的な作風が多く、オチがわかりにくい話が多少増えた反面、よりアブノーマルな世界が繰り広げられている。というより、自分の世界に入りすぎていて、それが怖いと思えてくるような登場人物が増えた。【空灰】の頃は、ある程度狂った言動をするキャラがいても、その周りにある世間や学校生活などに上手く順応出来ない人達の葛藤が描かれていることが多いが、こっちの方はある意味「モノホン」だ。ただ、こういうマジョリティから見ればほとんど完全にネジが外れているような人間でも、この漫画のタイトルの通り、裏では死にたくなるほどしょうもない日々を味わっているのだったら、やはり怖いの一言に尽きる。一話完結式の短編なので、【ちーちゃん】ほど読者に後日談を想像させる余地が与えられないままで次の話に進んでいくが、一話一話噛みしめるようにして読むと、また違った感覚が味わえるかもしれない。

 2巻は、表紙のデザインも一新されて、内容もよりアブノーマルな感じが増した。その上、彼(彼女)らはマイノリティに属するような変わった人達ばかりなのに、何故か普遍的にいそうな感じがする不思議。それは、話のオチがご都合主義的に終わったりしないものが多いからだと思われる。非現実的もしくは弁証法的に、登場人物の対話と対話の締めとして、矛盾した一つの悩みや壁がこの短いお話の間であっさりまとまって終わってしまうのであれば、それは漫画としては逆にありふれたものになってしまう。簡単に言うと、登場人物たちの多くは、現状維持ではあるものの完全な救いを手に入れられないまま終わる。そのため読者に、後味が悪いというよりは現実にないはずの世界に引きずり込まれてしまう微妙な不安に陥れる魅惑を、この作品から感じ取ることが出来る。時折現れるナンセンスギャグは、我々が生きる現実との対比を表した手法であり、まさに漫画ならではの表現だ。

 それに付随して考えると、【空灰】と比較して大きく変わった点は、主人公(アブノーマル側)の人間が話の主導権を大きく握る話が増えた、という所だ。ただこれは、作風の変化というよりは、むしろ世の中の変化の表れを体現しているのかもしれない。ここ2~3年でどのように世の中が変わっていったか、ということを説明するのは難しい。けれど今というこの社会は、ちょっと昔よりも更に更にネットや趣味の多様化が現在進行形で加速し続け、マイノリティに属する人間の主張が決して小さいものではなくなったりしている背景がある。あらゆる人間の個性を見る機会が増えたことにより、正常と異常の区別がつかないまま突っ走っているこの世の中を、這いずりまわってでも生きている人間達。そんな現実を生きる人々のブラックな面の生き写しのような登場人物たちを、この作品で深く見ることが出来るのだ。