本が漂わせる臭い――名作でありながら冥作【苦役列車】

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苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

 この作品で芥川賞を受賞した際、あんな発言をして物議を醸し、今でもたびたびテレビに出演する西村賢太氏。

 僕が本書を購入したのはずいぶん前のことだったのだが、買っておきながら何となく読みたいと思えず、ずっと本棚で眠らせておいていた。そして今日、いざ読んでみたら……

 臭い!

 とは言っても、見ていて恥ずかしいとかわざとらしいとかそういう俗語的な意味じゃなく、本当に匂いを嗅いだら強烈な腐臭が漂ってきそうな本なのだ。それは下品な描写が多いから、と言うより、人間のもつ局所的な部分をあますところなく見せ、それを読者に嫌でも無理矢理想像させる文体で進んでいくから。もうこの本、内容を知ってしまった以上、表紙を見ただけで臭ってきそう。先月、ブコウスキーの【町でいちばんの美女】を読んだ時も本棚が酒臭くなった、と本ブログで書いたが、本作もその感覚に近い(そう言えばあちらも本作と同じような自伝的小説だった)。

 しかしこの主人公、本当に劣等感の塊である。大きな不幸も幸福もないまま人生を過ごしてきた人が読めば「おいおいそれは……」と思う行動が多い。良く言えばアウトロー、悪く言えば思考回路がおかしい。現代文学の中でもかなり奇抜だが、近年このような自分を大っぴらにさらけ出すタイプの小説があまり売れていないのは何故だ? 僕としては、ここまで現代の日本における貧乏ぶりと主人公の覇気のなさをあますところなく体現した書籍を読むのは、かなり久しぶりだった。東陽片岡氏のコミックス以来かも知れない。

 この本以外での西村賢太氏の活躍を、僕はよく知らないが、本書に書かれてある内容や自己評価が概ね事実に則したものだとしても、氏はちっとも自分が思っている程“何もない”人間などではない。有名な賞を受賞したことはもちろんだが、それ以上に「自分を赤裸々に薄汚く、それでいてデリケートに表現することが出来ている」というだけで奇怪な才能を持っている。それどころかこの日本に生きる人々の暗部や閉塞感を示してくれた立役者とさえ思う。名作だ。

 ただ、かような本なのでやはり反論というか、内容にも本人にも同意しかねる人がいるのまた事実。特に下劣なことをする主人公や、溢れんばかりの暗さに辟易してしまう印象を抱いてしまうのも、さもありなん。もし僕がこの本を忌み嫌うような存在であるなら、それはこの登場人物の日下部のようにある程度(この主人公からすれば)恵まれた人間として生まれ育った場合などであろう。もちろん反対意見を持つすべての人にそれが当てはまるわけではないだろうが、単純に面白いかつまらないか、という尺度ではなく、人物に同意できるかできないかという話であれば、少なからずこの主人公のような体験をしないと、なかなかそういった共鳴がしにくくなっている、この本はそんな描写に満ち満ちている。

 この本はおそらく社会問題を提訴するような意図で書かれてはいないと思われる。が、作者のその主張の説得力たるや、そんじょそこらの社説やコメンテーターの比ではない。主人公(及び作者?)の自らのコンプレックスの強さは、都会で働きながらも十分な社会性を得ることも、感性をソフィスティケートする余地も与えない。しかし、そこで終わらない、作者独自の生き様が、この本を通して鈍く光らせているところが、この作品の秀でた面であり、賞賛したい部分である。今後もこのような、現代社会を不器用に小汚く生きる“ある意味で偉大な”男主人公による私小説が世に送り出されることを、願ってやまない。