今のニヒリズムは、小説より漫画で多くを得られる【さよならガールフレンド】

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さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)

さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)

 

 

 なんとなく人が寝る前などに多かれ少なかれ感じる、将来に対する不安感を少しの希望と混ぜ合わせた感覚。それと同等のむなしさに陥っていくような作品群だった。

 そこにあるのに、自分にはない。周りの人は持っているのに、自分は持っていない。このような空虚感は、まさに「漫画として絵で表せているのに」淡い絵柄と儚いストーリーでテンポよく読み進めることが出来るため、字を追うよりも激しい空虚感を得ることが出来た。この点は、同じ同人誌出身の漫画家として、九井諒子の初期の短編を髣髴とさせる。

 

 わざとらしいというかあざといというか、その癖着飾っているからこそ何もない自分を証明している。こういう虚無感あふれる作品は結構僕の好みだったりする。ただセックスを求めたって余計に空しくなるだけなのに。

 この短編集の、それぞれの話の主人公は心の中でしょっちゅう人を傷つける。その分自分も同じくらい傷ついていることに最後まで気づかず、いつの間にか状況は悪くなったり、何も残らなかったりで。でもそんな人生は、僕も嫌いじゃない。歳を取れば若さを失う。浮気をすれば恋人を失う。その代わり、苦しいことや悲しいことは無償でジャンジャン向こうからやってくる。良いことは嬉しいことは等価交換かそれ以上のものを支払わなければいけないのに、嫌なものはたいていただで手に入る。そしていつの間にかその嫌なもの、が懐に入ってきてたりするんだから、なるほど、漱石先生が草枕に書かれた通りである。

 

に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

 

 何とはなしに、淡々とした絵柄は、その人自身の生きにくさを表現しているとも言える。それも自分の中で帰結すべき問題を、他人との接触をはかろうとすることにより、解決しようとする。当然そのような方法で自分の心の迷いが正しい方向へ向かうはずもなく、それぞれの作品の主人公たちは、小さな過ちをしょっちゅうおかす。都会的でない、小さな町の片隅で、そのような小規模な事件を起こしては、自分の中で拡大解釈させて、まるで悲劇のヒロインを演じているかのように、各々が自分勝手なのだ。

 けれど、そんな若き主人公達を待っているのは絶望ではなかった。もちろん物語の結末は、純粋なハッピーエンドとは程遠いが、それゆえに読者に想像させる余地を産んでいる。ガラスの靴を足にはめたりするエンディングも、海の底で命を落とすデッドエンドもない。だが、この現代というなかなか大きな幸せにもめぐりあうのが難しい社会は、同時に簡単に破滅を選べるほど大きな不幸に見舞われる可能性も高くない。そんな社会の中で、多くの人達はこれからも生き続けていかなくてはならない。そこで、現代のニヒリズムのお越しだ。ざっくばらんに言うと、平均や中庸よりちょっと下くらいに位置する、小さくまとまった人々の人生の静けさを、この作品は描いている。昭和の優秀な文学者やガロ系漫画家には書けない、“少しモノがあふれてきた”この今において新たな見どころや切り口で描く。いろんな意味で面白い漫画と作家さんだな、と思った。

 

 本書は、普通にただ絵やストーリーを追うだけだと、わかりやすいかわりに少し地味な展開や、中途半端で終わってしまう部分があるため、あまり合わないという人もいるかもしれない。でもそれは、あえて自分の中で想像できるという余地が多分に施されているからこその淡泊さの表れであって、何もなさそうな中で見つけるそれぞれの人物の生き方を自分の中で吸収し、消化するパワーを秘めた作品集でもあるという証の一つなのだ。

 現代はめまぐるしく変わっていって、なかなか小説をじっくり読むような機会に恵まれない人も多いかも知れない。けれど漫画なら結構早く読める、という方も少なくはないだろう。今の時代は、漫画の方が現代の純文学りその芸術性が劣るということは決してありえない。人々の少し生きにくい人生というものを客観的に覗きたくなったとき、こういった漫画を手に取り、出来れば深読みしつつ、本作の意味や自分がどう感じたかを、じっくり味わってみてほしい。田舎、セックス、暴力といった画一的なテーマから少しはみ出したこころを、感じることが出来るはずです。