まだ東京で消耗してるの? という言葉に救われる消耗している人達

            <p>   いちいちリンク先を貼るまでもないか・・・</p>

 

 今日は本ではなく、かの有名なプロブロガーであるイケダハヤト氏の高名なブログ「まだ東京で消耗してるの?」に、一読者として、そして読む人の視点から見た感想を。

 

 失礼ながら、私はイケダハヤト氏のことを去年の12月になってからはじめて知った。自分がブログを書くと言うものに本格的に興味を持ち始めたのがその時期であり、何よりプロブロガーというものがこの世にあることすら知らなかった(なんという無知……)。それでも、ブログ以外にジャーナリストやコンサルタントなど幅広い方面で活躍している氏のことを表面的な部分まである程度知るのに、それほど時間はいらなかった。

 

 だが、内容に関しては触れない。賛同や批判と言った意見はグーグルの予測変換にすら表示されるくらいに溢れすぎているから、今更僕がどうこう言ったってただうずもれるだけだ。それに僕自身、ブログやネットで稼ぐことや、地方への移住について読んでもよくわからないことだらけだし、興味もそれほどないので、氏の意見のメリットデメリットなどを相対的かつ客観的に評価することも出来ない。

 だからここでは、「このブログを読んだ人がどう感じるか、という考察」についてほんの少しだけ、反対の声、賛同の声の二つに分けて書こうと思う。

 

 まずは反対意見からいこう。

 まず、氏の書き方や文章内容が気に入らない。そう言った理由による批判はちょっと除外します。一人一人の感性の問題なので、それに関して一つ一つクローズアップしていったら大変だから(・・;)

 ので、社会的な部分で見ていこう。「東京で消耗」ということは、ざっくばらんに言うと、「都会で苦労して働いている」ということだ。即ちお金を稼ぐために会社でやりたくもない仕事を生涯続けてる、または続けようとしている人に当てたメッセージである。その時点で既に亀裂が走る。実際には、東京の満員電車で揺られながら、家族を養うため、自分の将来のために働く人の中には、もう本当に定年までその仕事を続けていかなければならない理由がある人も多いのだ。それもそういう人の数の分だけ。そこに、新しく出てきた現代の社会の観点を、あくまで「これが今の時代の考え方なんだよ」、と言わんばかりに自論振りかざし煽るかの如く、「まだ消耗してるの?」などと書かれたら、冷静になって考えたとしても、おかしいと感じる人は多い。繰り返すが、人にはその人の数だけ人生の事情と言うものがあり、本当に東京で身をすり減らして働かなくてはならない人も多いのだ。もしこんな理屈が一般論としてまかり通ろうものなら、世の中の実業家全てが「まだ搾取されてるの?」と言いつつ搾取し続けるようになっても、誰も文句が言えない世界になってしまう。これでは明らかに狂っている。

 その話と連動して、今度は賛成意見の方を見ていく。ここでもある立場にいる人の意見は除外する。その対象は「イケダハヤト氏のアドバイスに従ったら、会社を辞めた時よりも年収が大幅に上がった人」である。はっきり言って、少なくとも現時点ではそのような人はいたとしても少ないだろう。そこで、反対意見の時とは逆に、今度は「イケダハヤト氏の書いた文章や内容が気に入った、頷ける部分が多かった」と、読者の感性に因る感想にスポットをあてる。

 まず、核心部分から述べてしまおう。反対、賛成関わらず、あらゆる仕事をしている人たちがこの世にいるおかげで、イケダハヤト氏の商売が成り立っているのだ。世の中全員文筆家やジャーナリストになってしまったら、誰が家を建てるのだろう? 食べ物は? 着るものは? それはこの国、いや、この世界で必死に働いている方々のおかげである。何を当たり前の事を、と思われるかもしれないが、本当の本当にそこを十分に理解できている人なんて、この世にどれほどいるのだろう。

 ここまで書けばもう書くまでもないと思われるが、東京で消耗している人達が、氏のブログを読み賛同しつつ、それでもやっぱり東京で消耗しつつ、を繰り返しているケースが非常に多いのが現状だ。一例を挙げると、何度も何度も僕の記事に引き合いに出して恐縮だが、ニートもしくは社会で苦労して働いている人が、異世界で無双しているニートが主人公の作品を見ることによってカタルシスを得るのとほぼ同等である。つまり、フリーで働くという事は、異世界などという非現実的な概念と同レベルで捉えてしまうほどに、現代の社会において消耗している人達にとっては理想論に近いのである。

 なのでもし、自分で東京で消耗していることが心の奥ではそれが本当に嫌だと考えている人がいるのなら、もちろん氏のブログを読んで触発されて実際に動くのもいいと思うが、ただ満足しているだけで終わるのではなく、何らかのアクションを起こす余地はあるだろう。それだけは断言できる。そのアクションとは、何も真っ先に起業の準備をするとか、会社を辞めるとか、そういった早まったことではなく、健康なうちに健康な考え方を養い、それに伴い自力で自分の人生を従わせた方がいい、ということである。要はまず意識から変えていって、一日一日を通して少しずつ行動に移していく。そんな当たり前のことである。

 この国は情報化社会、と言えば聞こえはいいが、はっきり言ってそれは洗脳社会と同義だ。望んで社会の歯車になるまではまだ良いが、自分の健康や将来、やりたいことを、“他”の言いなりになってまで犠牲にすることは良くない。もう一つ断言できることがあるとすれば、いつの時代だって幸せを掴めて、死ぬ直前までニヤニヤしながら笑える人は、自分で考え行動した上で後悔なく人生を切り開いてきた人だけである。

 人間が生きていく上で最も不幸に陥りやすい要因の一つ、それは洗脳だ。自分が健康を失う前や死ぬ前に「自分が“誰か”に強要され続けてきた」と気づくのでは遅すぎる。自分の人生の為に自分で考えて行動する、ということは、やっぱりどうしたって必要なのだ。日本の学校はそれを教えることをせず、なあなあで済ます。この時点で既に洗脳が始まっていたのである。だからこんなでたらめな社会でも歯車だけは作動し、回ってしまうのだ。根本的な話をすれば、好きなことやっている人、やってない人どちらが正しいか、ということではなく、自分の信念に従って行動する人が、もっとこの世に増えてもいいのではないか、と感じる。そしてそういう人を啓発する役割を一部担っているという意味では、僕はイケダハヤト氏の考え方を、個人的には支持する。