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ラノベそれほど読まないとか言ってたくせにまたラノベかよ、という声もおありでしょうが、今日は一年の終わり、という事で、それとかけまして今回は終焉物のこの作品(ちょっと苦しいな……)
昨日の記事で、僕はこんなゆるい感じの終わりの始まり的なストーリーが大好きだと書いた。(まあ筒井康隆の初期の短中編や「霊長類南へ」のようなスラプスティックとグロを混ぜ合わせた個性的なハードSFももちろん好きだけれど)その理由も合わせて、今回はこの本を紹介する。
多くの社会人がそうかもしれないが、今の僕は働けど働けど毎日の暮らしが楽にならない。それどころか自分の人生だけでなく周りの人々までもが苦しみ、日本中がどんどん不景気になり、破綻し、緩やかな滅亡に向かっている予感すら感じる、そんな現代社会。だから、聖書のような大洪水ではなく、こういった静かな終わりを語りかけるような作品の方が胸に響く、ということだってあるのだ。
死に物狂いで頑張ったけど結局幸せになれず、誰も救えないまま終わった。
自分の好きな事やったけど、やっぱり静かにただ終わった。
結果はどちらも同じだが、どっちがいいかって言われたらやはり後者だ。
血を吐く思いで苦しみ、それで生き続けることが出来るならいいが、運命に抗えない事が既に決まっているのなら、好きなことをしよう。そういう理論に辿り着くのであれば、それほ奇特な選択肢ではあるまい。
さて、この作品。「喪失症」、という架空の病を題材(というか破滅の象徴)にし、人々は旅に出る。ある人は記録を残すため、ある人は夢をかなえるため、エトセトラエトセトラ。
そこには、おそらく世界中の人々が心の深淵で抱く、自由への憧れや旅という解放を求めていることの表れを、のっけから大胆に大きなテーマの一つとして展開している、という見方も出来る。
そう、こんな時代だからこそ人々は本当は嫌な事から解放されて好きなことをやりたい。でもそうすると全ての責任を自分で背負わなければならなくなるし、先の見えない将来も怖いから、いつもの苦しい毎日を送っている人は苦しいままの生活でも抜け出せないケースが多いのだろう。
この作品の「喪失症」は滅びの象徴の一つであるが、同時に人々からのそういった不安や日常の苦しみをも失わせているという側面をも併せ持つ。
もちろん、実際に作中ではそんなポジティヴな症状として扱われているわけではない。滅びは滅びである。
主人公達が深くかかわりあった登場人物の中で、本当に消えてしまった人だっている。それも儚く。
この作品は、別に命の大切さとか消えた人々のことを思い出すとか、そんな小難しい人生に対するテーゼを問いかけている訳ではない。そもそも姿が消えた人は、他の人々の記憶からも徐々に消え去ってしまうのだから、某有名RPGのヒロインの台詞のように「いなくなってしまった人たちのこと、時々でいいから思い出してください」という事すら叶わなくなる(余談だが、そのRPGナンバリングシリーズの13作目の2011年に発売されたスピンオフ的作品で、「死んだ人間の記憶が失われる」という設定が存在するものがあることを今知った)。
しかし、絶望や救いといったポーズだけではない何かを、この作品には感じる。その何か、とは、おそらくすべての今生きている人達が心の中で大事にしている、言葉では説明のつかない理由の一つ、なのかも。哲学的な思考ではなく、本当に、ただ純粋に、今生きていることの喜び。もしくは死や消滅といった終焉の前に、確かに今ここに存在する希望と幸福。
文章は良くも悪くも昔で言うヤングアダルトのような体裁で今風な感じもあまりしないが、内容は、なかなかどうして、現実の世界で忙しく生きるこのおっさんの心をときめかせるものになっている。雰囲気とイメージ作りの喚起、登場人物の苦しい運命を読者の心の琴線に触れさせるストーリーの経過。そして確かに感じさせる喪失感と、そんな世の中だからこそ自分の進む道をただ進むというパラドックスとのマッチング。
こういう感覚は、ちょっと他の書籍ではそうそう味わえないのではなかろうか。
今を忙しく生きながら、人生の意味や自分のレーゾンデートルまで問いかける程まで追い詰められた人間のために、こういった作品がもっと増えていいと思う。
決して軽くない。けれど啓蒙的でなければ押しつけがましくもない。
今こそ、自分という人間を成長させたいのであれば、巷で行われている安っぽい自己啓発セミナーや新興宗教などではなく、自分のあり方そのものを変えるために、フィクションノンフィクション問わず、素晴らしい書物を沢山読み、自らの血肉に変えていこうではありませんか
ということで、この自分のブログのタイトルを引っ張ってきたところで、当ブログの今年の更新はこれにて終了させて頂きたいと思います。
それでは来年もまたよろしくお願いいたします。