<p> ピアノと調律師の物語。</p>
一見、小説や漫画などの物語でもありふれていそうな題材である。
では、現代の調律師の仕事をここまでわかりやすく美しく表現できている作品は?
本から音が聞こえてくるわけがないのに、自分の中で音楽を聴く準備を整える心持ちになってしまう小説は?
私が思い浮かぶのはこの作品だ。
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羊と鋼、というのは、ピアノの素材のことを表すのだが、調律師を目指し、調律師としてひたすらに生きる主人公の成長物語をただ綴っただけのものではない。
もちろんそういう解釈をしながら、最初から最後まで読んでも面白くはある。
しかしそれだけではもちろんない。
この作品の真髄は
・登場人物全員が主人公になりうるほど、個性豊かで感情移入しやすいこと。
・良い意味で読み手が常に裏切られる展開が、まるで人生そのものを表しているかのようである。
・メジャーな題材を難しく、しかし伝わりやすく書ききっていること。
・心理描写が繊細で、まるでピアノの調律のごとく崩れやすく、そして美しい文体
その他、全てを書こうとしても書ききれないほどの特徴が、この文庫本にして260ページほどの分量に収まっている。そしてそこには、著者が強引に掲げるような独りよがりのテーマや御都合主義などとは無縁であり、だからこそまるで自分(読者)までもが登場人物の一員のように
「何かを表現する人」
「その表現する人を支える人」
になれるような、優しい気持ちを抱ける。
誰もが知るところである、スペインの画家パブロ・ピカソはこう綴った。
子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。
人は皆、子供時代という過程を経て、そのまま生きていけばやがて大人になり、老いて一生を終える。すなわち、全ての大人は子供時代を体験し、芸術を嗜むだけでなく、自分で表現していた時期があるのである。
本書に、物語の主軸になるような非現実的なイベントやデウスエクスマキナは存在しない。なのに何故これほどまでに「ピアノで表現したい」または「それを支えたい」と思うひとが、悩み苦しまなければならないのか、本書を読んで再考させられる。
しかし、改めて本書の登場人物の心を探ろうとすれば、そして上記のピカソの言葉を借りれば、それも当然のことであるのだ。
人は誰しも芸術家、だから苦しむ。
それを捨ててしまえば楽に生きられるのかもしれない。ピカソが言うように、問題もなにも、そのように生きていく人が否定されるいわれもない。
だが、自己満足で終わらない芸術を伝え続け、世に広める。そしてそれを支える人が数多くいる。本の世界で言えば、まるで作者と読者の間柄のようではないか。
もちろん、本の出版一つとっても、そこには編集者などの出版側、印刷屋や本屋や物流など、幅広い立場の人が他にも広く関わってくるのだが
それでも芸術作品と言う分野の真の主人公は
「それを作る人」
と
「受け取る人」
の両方だ。
話を本書の内容に戻すと、どこにでもいそうな平凡な主人公の外村青年は、高校生の頃に天才調律師の板鳥に出会い、調律の道に進むことを決意する。そのいく先々では、外村青年及び彼と関わる様々な登場人物が、誰かの人生を支え、時には支えられ、そしてまたある時には苦しみつつ、森を彷徨うかのように生きている。
先述したように、大きな理不尽や物語そのものをひっくり返してしまうような展開はほとんどない。だが、登場人物が作中で抱く苦しみは千差万別で、本人及び周囲の人もそれに応える。
この作品は、生きるという苦しみを芸術家及びそれを支える人の視点で書いているが、人生における対話や日常を描いたコミュニケーション小説とも取れる。
すなわち、それが芸術であり、本書はその一部を象った作品なのだ。
人は生まれ育った頃から芸術家であり、そしてそれと同時に芸術家を支える人。だから人生と言う名の芸術を感じずに生きている人はおらず、また、他者との生き方や支え合い、その大切さを知っている。
最後になるが、本書はシンプルに
芸術家と、芸術を支える人、そしてその人をまた支える芸術家
このように人生と言う名の森の中をぐるぐる回るような表現で魅せた、素晴らしい作品です。
まるで、本書を読了すると、登場人物に感情移入出来るだけでなく、自分が歩んできた芸術と言う道を教えてくれる感覚すら覚える。
そして、また新たな芸術を求め、人は生きていくのだと思うに至った。
ピアノを引く側と、そのピアノを調律する側。
この本を読んだあなたも、どちらかに属する人なのだろう。