かっこつけながら何も残らなかった青春【十九、二十】

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十九、二十(はたち) (新潮文庫)

十九、二十(はたち) (新潮文庫)

 

 

 僕がこの本を読んだのは高校生の頃。それでも原田宗典氏の長編小説の中では今でも最も印象に残っている(と言っても氏はあまり長編を上梓していないのだが)。

 

 文字通り二十歳になろうとしている大学生が主人公の物語。形式は私小説に近く、同じ作者の短編小説集【しょうがない人】などと組み合わせて読むと、より氏の大学時代の家族状況や生活などが窺える。

 この本のもつ独特の魅力としては、主人公山崎青年のどうしようもなく気弱でかっこつけた、その現実的な性格の癖に何もわかってない生き様にある(今で言う「意識高い系」と共通している面もあったりなんかする、とは言え文章やプロットまで露骨で陳腐な表現に留まっているというわけではないが)

 

 そして主人公山崎青年を待ち受ける様々な、それでいてちっぽけな受難。 

 借金取りから逃げるために転がり込んできた父親の面倒を見、エロ本屋のバイト先との女と関係を持ち、性病をうつされ、彼女と別れ、バイト先の先輩(あまり人格者ではない)からもらったなけなしの給料もくすねられる。とことんこの主人公には何も残らない。それも二十歳の誕生日を迎える前に――

 

 いつの間にか持っていた物が少しずつ音もなくこぼれ落ちていく。主人公は特に悪いことをしている訳でもないのに、選んだ道が悪かったというか、ちょっと文章から見て取れる気取った素振りのせいで、読者に、

「ああ、こういうものなのか」

 と妙に納得させてしまう虚無感を本書は感じさせる。

 その気取りっぷり、気弱ぶりは、一つ一つの文からも窺える。

 

「誕生日プレゼントに扇風機を買ってもらったら風を浴びる度にアツコ(バイト先の女)に感謝しなくてはならないではないか」

「たいへんよくできました……(父親の借金取りからの手紙を破り捨てながらの独り言)」

「本当僕は何をやっているんだろう」

 

 残念だが、この主人公は自分にとって人生に何が大切なのか自分で理解できていないようだ。

 その結果が、この昭和50年代の東京という舞台の中で、ただただどっちつかずでうろうろする人生。おそらくこの主人公は当時の作者そのままの投影ではなく、現実を悪い方向に考え、且つ照らし合わせたⅰfストーリーのそれに近いのだと思われる。

 同作者の別のエッセイで書かれている内容だが、現実の作者は何もエロ本屋だけでなく、実に様々なアルバイトをしてきた(早稲田文学部という輝かしい学歴を持ちながら、バイト経験の方が人生に役立ったと言っていたくらい)。それだけでなく、氏は大学時代に投稿した小説が賞を取り、マツダのカペラを手に入れた。更に卒業してコピーライターを経て小説家デビューした。この山崎君そのまんまだったら無理だろうなそんな事。

 

 大きなドラマ性や抑揚のないストーリーから、村上春樹などの青春小説などに比べても知名度は劣るものの、リアリティや虚無感、訴えたいものがあるという点ではこちらがはるかに上回る、と思っている。

 

 それにしても、この主人公、言うほど苦労していない。

 

 父親が借金まみれでサラ金業者に追い立てられても、作中の人物に指摘されている通り、ちゃんと大学まで行かせてもらってる。それも岡山から上京して一人暮らしまでさせてもらって。現代の貧困に苦しむ人からみたら、「自分の方が苦しい生活しとるわボケ」などと思ってしまうかも知れない。

 

 しかし、読者にそう思わせてしまう可能性を秘めている程に、この主人公に見えないところでシンパシーを感じさせてしまう魔力が、本書にはある。

 

 若い時分にかっこつけたがるのは普通の事。しかしただそれだけではかっこいい人間にはなれないということに気付いた時、人は大人になれ、本当の意味でかっこよくなれるのかも知れない。

 

 そう考えると本書は、まさに最後の一行で、主人公がそのような“大人”になれずに、救われないままで幕を閉じたという顛末を、まざまざと見せつけたのだとも言える。

 

 このような、ひと夏の空しい青春とニヒリズム、誰一人として幸せになれていない主要人物達。「十九、二十」はそんなお話。

 一人称小説でありながら、主人公だけでなく脇役も“読者も”巻き込んだ群像劇のような物語を書いた作者を、僕は賞賛したい。