【村上龍:編】薄ぼんやりとした透明な恐怖作品集【魔法の水】

            <p>    この作品集は、現代ホラー傑作選第2集(現代、とは言っても20年以上前に上梓された本だが)と銘打って、村上龍氏によって選択された、9人の作家の9つの短編を纏めたものである。</p>

 

[amazon_link asins='4041586062' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='4779930b-6560-4a30-bafd-2ae219ed8dc1']

 

 

村上春樹:【鏡】
山田詠美:【桔梗】
連城三紀彦:【ひと夏の肌】
椎名誠【箱の中】
原田宗典【飢えたナイフ】
吉本ばなな【らせん】
景山民夫【葬式】
森瑶子【海豚】
村上龍【ペンライト】

 

     個性的な作風の作家による短編で占められており、すべてをまとめて“現代風”という解釈で済ましてしまうのは、強引かつ抽象的に過ぎるが、一つ共通する部分がある。

    それは「透明感」である。
    村上春樹氏の【鏡】、山田詠美氏の【桔梗】、吉本ばなな氏の【らせん】、村上龍氏の【ペンライト】が特にそれに当てはまり、その「透明感」は、他でもない「人間が抱く恐怖心」によって人間が作り出した、奇妙な感覚を見事に表現しているのである。
    幽霊や妖怪は出てこない。が、知人が死ぬことや事故、猟奇的な顛末、こういったものにおいては必ずしも非現実的なものではない。現代の人間だからこそ「もし自分にこういうことがあったら」という、逃れることが叶わず、対処も出来ない透明な恐怖に、普段から我々は苛まれている、という表現を見事に描写している。
    景山民夫氏の【葬式】のように、幽霊が出てくる話もある。しかしそれも、スピリチュアリズムとかそういった類のものでなく“あくまで自然に”出現”し、この現代を生きる我々の意識の延長線上にのしかかってくる。科学文明が発達していない昔であれば、妖怪や幽霊が大手を振って人々を怖がらせていたのだろうけれど、それらも結局のところ人間の恐怖心が生み出したものであり、この本に載っている短編はみな、ほんの少し手を差し伸べただけで自分も巻き込まれる世界に誘われる、そんな錯覚を抱かせる。

    また、最後の村上龍氏の解説の文が秀逸である。


「恐怖が想像力によって引き起こされる。想像のないところに恐怖はない」
(恐怖というものを想像する時に)一人きり、というのは絶対に欠かせない要素である」
「小説は、ホラーに限らず、読者の想像を刺激しつつ、書かれる」


    だが、この的を射た言葉の数々をもってしても、人間が恐怖心に負けない意識を持つことは不可能だし、むしろ想像によってより強く引き立てられる。
    だから、“恐怖”や“奇妙”といったジャンルは、いつの世も魅力的なのだ。
    心理学用語で「接種理論」というものも我々の恐怖に密接に関係しているものと言える。例えば、予防接種の注射を打つ前に、注射の痛みを強く想像したり、自分で腕をつねったりした経験はないだろうか。つまり、恐怖を感じる前に、自らその怖さを体感しておくことによって、本当の痛みや恐怖を和らげようとする心理である。

     もう一つ言うと、この平和な日本では、一人きりで部屋の中にいても、外部から突然恐ろしい目に遭わされたり、また外での日常生活の上でいきなり言いようのない悲劇に襲われる可能性は、それほど高くない、が、ゼロではない。その「ゼロではない」というところが、我々の恐怖心からの想像力をより掻き立て、人間の意識に重きが置かれた「薄ぼんやりとした透明感のあるホラー」というジャンルが成立する。

 

    本書は、ありそうでないのに、なんとなくあるものとして感じられてしまう、現代を生きる人の恐怖心を八方からかきたてようとする、そんなホラー小説集。。。

【モーパッサン】本当に醜いものの正体【脂肪のかたまり】

            <p>[amazon_link asins='4003255011' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='91bf2c84-4a08-4ac3-bd04-748207cac86e']</p>

 

=================================

 物語は普仏戦争(1870年~1871年)時、プロシャ軍に占領されたフランスの都市ルアンから始まる。その街から乗合馬車で移動する様々な事情を抱えた10人は、同じ乗客の中にいるブール・ド・シュイフ(脂肪のかたまり)と呼ばれる太った娼婦(本名エリザベート・ルーセ)を忌み嫌っており、当てこすりや蔑視の目を向ける。馬車が悪天候のため、目的地であるル・アーブルにはなかなか着かず、乗客たちは心の中で空腹を訴えるようになる。そんな中、ブール・ド・シュイフが食べ物の詰まったバスケットを取り出して食べ始め、他の乗客にもすすめる。乗客たちは先程の彼女に対する悪意もどこへやら、快く彼女を受け入れ、それを食べながら軍や戦争の話で盛り上がり、空腹を満たすことが出来た。

 やがて馬車はトートの町へたどり着いたが、そこもまたプロシャ軍に占領されていた。10人の乗客はその場でプロシャの士官に宿に連行される。寒い宿の中で2日間の間全員が出立を禁止されるが、その内にブール・ド・シュイフが士官にくどかれ始める。彼女が愛国心からプロシャ士官のアプローチを拒否していることをきっかけに、旅行者全員が彼女に対する考えがまた変わり始めてきた。彼女が士官と寝ないために自分たちがこんな目に逢わされている、と。しかしそれを直接口にする者はいなかった。

 他の乗客たちは各々勝手な理屈で、ブール・ド・シュイフが士官と寝ようとしない事を否定し始め、遠回しに彼女を士官と寝させるように仕向ける。ブール・ド・シュイフは当然拒否し続けたが、あまりの執拗な説得についに彼女は士官と寝た。翌朝、ついに出発することを許された。

 乗合馬車の中で、乗客たちが再び団欒を始めてからも、誰もブール・ド・シュイフの方を見ず、考えようともしなかった。彼女を犠牲にしておきながら、大きなバスケットの食事を振る舞われたことなど忘れ、今こうして宿で用意した新しい食事をガツガツと貪っている。彼女は怒りに打ちひしがれるが、やがてそれが涙に変わる。それに追い打ちをかけるかのように、一人の乗客がフランスの国家(当時は過激な歌とみなされていた)を、他の乗客への当てつけのように歌い始める。

 

 愛国の聖なる心よ

 導き支えよ 復讐に燃ゆるわれらの腕を

 自由よ 愛する自由よ

 汝が守り手とともに戦え!

 

 愛国心のために尊厳を守りぬこうとしたブール・ド・シュイフは、すすり泣きを抑えることが出来なかった。

 

=================================

 

 ここまでがこの本のあらすじなのだが、本書は敗戦国であるフランス国民と、そこで堕ちた人間の醜さやエゴを書いていて、尚且つ登場人物の目線を定めないことにより、出来事が客観的に書かれてあるところが重要なポイントとなる。人々は口々に彼女を罵る。しかし直接は言わない。強引な理論や大義名分を押し付け、そのために自分が間違ったことをしようとしているなど決して思わない、いや、思おうとしない。最初に弁当を振る舞われて空腹を満たすことが出来たのも、宿でプロシャ軍から解放されることが出来たのも彼女のおかげだというのに。

 同じフランス文学の中では、例えば【レ・ミゼラブル】でも見られるように、娼婦という存在はたびたび一方的に蔑まされる存在として書かれることが多いが、この場合でもやはり同じくみじめに扱われている。しかし客観的に見て、心に醜い脂肪を抱えているのは、どう考えても他の乗客達だ。勝者は敗者をぞんざいに扱い、更に敗者はその中の最も惨めな者を貶め、しまいには利用するだけして後は見て見ぬふり。果たしてこのようなことは本当に戦争中だけに訪れることだと言えるだろうか?

 人間とは、負けた者や自分より立場が弱い者にはとことん厳しい。目を覆いたくなるような人の悪意を見ても、それが戦争や環境のせいだ、と簡単に思えてしまうこともまた、人間の罪の深さの一つとも言える。平和なこの国で、今一度自分にとって、本当に戒めなければならないことは何か、本書はそれを考えさせてくれた。

「努力」と「希望」の架け橋になりうる本【バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える】

            <div id="yiv1407788232yui_3_2_0_3_148572053578140" style="color: #000000; text-transform: none; text-indent: 0px; letter-spacing: normal; font-family: 'MS PMincho', serif; font-size: 13.33px; font-style: normal; font-weight: normal; word-spacing: 0px; white-space: normal; orphans: 2; widows: 2; background-color: #ffffff; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; -webkit-text-stroke-width: 0px;"><span id="yui_3_2_0_3_1485769749136202" style="font-family: 'arial black', sans-serif; font-size: 16px;"><span id="yui_3_2_0_3_1485769749136203"> 本書は、【ビリギャル】が話題になったあとに発売され、過去には「その便乗本なのでは?」という話もあったようで、「イヤイヤ、そんなのより遥かにすごい!」という声もまた存在していたようである。</span></span></div>

[amazon_link asins='4591146979' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='f044bc94-2f2f-4727-889f-53f674c351aa']

 

 いずれにしろ、この著者は文字通り死ぬほどの努力をして、世界トップレベルの公立大学であるカリフォルニア大学バークレー校に入学し、卒業出来たのだから、素晴らしいと思う。
 溝のある家庭環境、ぐれた中学時代、警察に補導され身柄引取りを拒否される。県内で偏差値が最低レベルの高校に入ってからも、喫煙・喧嘩は当たり前、だが、中学時代に比べると、親はあまりきつく言わなくなってきた。
 卒業後、勢いでとび職に就いてから、家族に変化が訪れ始める。生命保険会社に16年間勤める父親が、初めて業績優秀者としてハワイで表彰された。著者もそれを見て一念発起した。その後、専門学校に通いIT企業に再就職した。リーマンショックの直撃を受けた現場で「やれている同僚」を分析し、彼らが卒業しているトップランクの大学に入ることを決意した。「金のことは心配するな」そう言った両親に見送られながらアメリカへ。そしてカリフォルニア大学バークレーへと。
 
 
 確かに、誰でも著者のように努力できるわけではない。一日十数時間勉強したり仲間を見つけてコミュニケーションを取りながらやったり、その他多くの方法を実践した。そもそも、アメリカへ留学させてもらうという両親の金銭的な後押しもあって努力できたという環境面でも恵まれていたのも事実で、要するに、これを読んでもそもそも土俵が違うなどの理由で結果を出せない、という人も中にはいるだろう。
 
 しかし、それでも著者のすごい点はたくさんある。
 特に大きいのが【自己分析能力】【行動力】だ。
 
 先日紹介した為末氏の書物にも書かれてあったことだが「自分を理解し、正しい方向で努力すること」の大切さを、この著者、鈴木琢也氏は体で理解していた。「自分は○○だからこうやって努力しよう」「地頭でかなわないなら量と工夫で勝負だ」と、数々の試行錯誤を繰り返しながら非常に効率の良い方法且つものすごいスピードで成績をグングン伸ばしていった。このように、自己分析しながら己を高めていくというのは、誰にとっても非常に大切なことであり、著者はそれを最大限に伸ばすため努力した。
 実行力も素晴らしい。英検4級以下という実力で渡米し、コミカレ(コミュニティーカレッジ。現地の二年制の語学学校)に行くという時点でもすごい勇気だが、その後も著者はひたすら、行動するために勉強だけでなく環境に慣れ親しむための練習に練習を重ねた。わからないことがあれば友達になって誰かとディスカッションをする、タイムマネジメントを計画し結果が出るまで見直す、課外活動にも積極的に活動する、とにかく出来ることは何でも実行し吸収するという行動が、著者を成功へと導いた。
 とてつもない努力と工夫を積み重ねていった結果、著者は最終的にバークレーに入学・卒業し、日本に戻り、アジアNo.1のビジネススクール「GLOBIS」に就職した。
 
 この本で書きたかったことは「人はいつでも変われる」「努力することの素晴らしさ」「家族の再生」など、たくさんあると思う。
 もちろん、それは私も強く感じたが、それ以上に
 
「世界が切り開ける希望」
「計画倒れにならず行動することの大切さ」
を受け取れた。
 
 実際、本人だけでなく、著者の父親も62歳にして税理士の資格を得ようと更なる高みを目指し、人がどれだけチャレンジ精神を持ちながら、それを実行して結果を出すまで諦めず邁進していけるか、ということほど素晴らしいことはないのではないか、と思える。
 確かに、著者が人生で新たなことに再チャレンジできる環境にあったのは事実だし、見ての通り努力の天才とも言えるお人だ。しかし、この本で私に伝わってきた内容は、単なる努力の大切さや結果を出すことの素晴らしさだけではなく、「自分が成長できるということの楽しさ」「誰かや、世界を動かそうとすることのワクワク感」など、希望にも溢れている。人は希望がないと生きていけないし、この本はそれをとてもわかりやすい形で教えてくれた。
 
 文章も平易且つ口語調でありながら論理的で、読みやすい。「自分の努力が報われない」「なかなか自己分析の方法がわからない」などの悩みを抱えている方にも、本書はうってつけだ。

【超 筋トレが最強のソリューションである 筋肉が人生を変える超・科学的な理由】が、名実ともに「超」!!【Testosterone】

            <p> 先日、筋トレフリーク界隈で有名な、<b>Testosterone</b>さんの著書を読んで感銘を受けたことを記事にしました。</p>

http://kenjinia.com/?p=42

 

 あれから約1ヶ月。

 私自身も筋トレを細々と続けていて、まだ体重や体格の激変といった変化は見られないものの、少しずつ自分に自信をつけている状態です。

 今回も、その続編となる以下の書を、友人に勧められたことをきっかけに、書評ならびに感想も兼ねてまとめました。

[amazon_link asins='4866510587' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='b7fa3ff4-ec48-4f29-8b69-bd26fe44b10d']

 

 通常、この手のベストセラー本の続編というのは、一冊あれば後続の作品はほとんどコピペ……というのは、某なんとかエモンさんの意見ですが

 本書は、そういったものとは違い

 前作よりも、名実ともに「超」がつくほど内容がパワーアップした作品であることを最初に述べておきます。

 本当に、日々の筋トレによって更に肉体や精神に磨きをかけてきたかの如く、それを著作という形でも証明したのです。

 

 では、どの辺がパワーアップしたのかと言うと、大きく見るだけで以下の通りとなります。

・筋トレの専門家による科学的エビデンスが加わり、やはり具体的で説得力がある。

・著者ご本人も冒頭で仰られているように、その科学的な証明以上に「筋トレによって人生が変わった」という多くの方のエピソードが、筋トレ効果というものの何よりのエビデンスになっている。

・前作にもあったギャグorシリアスを含めたコラムが、今度は専門家との対談形式や実録漫画などに進化し、より楽しめる&わかりやすいものになっており、その点においてもパワーアップしている。

・それでいてそれらの専門家や実録部分の登場人物も、本書が決してただイエスマンを並べているわけではないので、それぞれの論点や意見を自分の人生観を交えつつしっかり客観的且つ具体的に述べている。

・世に出回っているような筋トレ効果をなかなか信じられない人に対して、今作は「自分自身」に対して人生を磨くことを更に強調しているため、説得力は増しているのに押し付けがましくない点については相変わらず。

 などです。

 

 本当に、前作同様素晴らしい本なので、その魅力は実際に読まないととても全てを伝えることはできないと思うのですが

 中には

「著者は良いこと言っていると思うし、すごい人なのはわかるけど、やっぱり自分自身が筋トレを実際やることについては全く興味がない」

 という方もいらっしゃるかと思います。

 確かに本書は、なまじ自己啓発の部分及びそれ以外のところも更に面白くなってしまったがために、筋トレ云々はどうでも良いけど単純に読み物として面白い、という副作用が、幸か不幸か付いてしまっている、という見方もできます。

 もちろん、そういった読み方や楽しみ方もアリでしょう。

 しかし、この本を読んだからには、やはり実際に行動することを私からも強くお勧めします。

 

 本書及び前作は、ただ単に「うだつの上がらない者から成功している人に対してまで幅広く筋トレの重要性について説いた文」をまとめただけのものではありません。

 著者ご本人は、筋トレ人口の増加やそれによる自分以外の幸せなどといったところまで熟考されているようですが

 本書において注目したいのは、Testosteroneさんとは違う形であっても、自分というものと向き合い、人生においてやるべきことをやり、結果を出すことの素晴らしさを、内容及び著者の行動を以て表明・証明しているということです。

 更に言ってしまえば、それは筋トレ以外から始めても良いわけです(ご本人も最初にウォーキングやジョギングから始めることも提言されています)。

 筋トレという方法で人生を良い方向に変えられたり、目に見える具体的な数値や形で自分という存在が強くなれたのであれば、それがとても素晴らしいことは言うまでもありません。

 ただ、それだけにとどまらず(本書は筋トレ愛に満ち満ちている本であるにも関わらず)筋トレ以外のジャンルからでも、「読者それぞれに自分の人生と向き合うチャンス及び手段を掲げてくれている哲学的な本」という見方もできるのです。

 とは言っても難しいことではなく、あくまで、“自分自身”という自分が一番よくわかっている存在であるはずのものを見失うな、というシンプルな結論も、数ある哲学的な答えの一つです。

 なので、内容は非常に面白いものの、ある意味では「万人受けする」ものではありません。

 何故なら、実際に「自分というものを理解し、行動したい」「自分の人生を大きく良くしたい」という観点から考えれば、楽しむだけでは意味がないからです。

 

 しかし安心してください。

 本書は、前作の内容以上に、面白さや説得力、それぞれのエビデンスなどがパワーアップした内容であることは、先述した通りです。

 それにも増して、精神論を超えた、単純にやる気を起こさせるための文言や熱意もまたパワーアップしています。

 ここが一番重要ですね。

 なので、この本を読んで、筋トレしたくならない可能性は非常に低いーーいや、そんなことより

 少なくとも自分の人生をより良くしようという思いを何らかの行動や形として得られるきっかけとなる、素晴らしいほどの良書です。このくらいのレベルのソリューション本は、実際にありそうでほとんどない。

 

 お勧めできます。

エンジニアに資格は必要か?

            <p> ITに関する資格は非常にたくさんあります。</p>

 

 ITパスポートや基本情報技術者試験から応用情報技術者試験などといった国家資格、ベンダー資格に至っては、プログラミング系・インフラ系・その他ジャンル、といった具合で分けたとしても、数え切れないほどあります。

 

 私は今、会社から資格を得るように言われ、勉強している身分ではありますが

 

 今回は、IT業界で働く方々、または目指している方に向け、

【資格は本当に必要なのか】

 という点について考えていきたいと思います。

 

1.「人による」

 例によっていきなり結論を出すと、これです。

 完全に

「働いている環境・仕事内容・立場・その他によって大きく左右されるし、その人のやりたいことや適正などにもよる」

 が答えだと思います。

 他のブログやツイッターの皆様から流れてくる情報だと、やはり

・「重要である」

・「必要ではない」

 に、二分されるようですが

 私のは一番無難でつまらない結論ですw

 しかし、これが答えだとも思います。

 IT系に限らず、どのような資格も手段であって、目的や目標ではありません。

 とりわけ、士業や業務独占資格などとは違い、IT系の資格がなければPCの電源を入れたりプログラミングやサーバ構築をしてはいけない、などという法律はありません。

 とは言え、取得しようとしている資格が、就職や転職に有利だったり、自分の業務を覚えるための良いきっかけになったりすることがままあるのもまた事実です。

 人によって、取得・合格すれば大きなメリットがあるし、逆に費用対効果が悪すぎるケースが多々あるという面もあります。

 今(2019年1月現在)の私も--元々は後者の方だったのに--取ることになってしまいました(汗)。

 なので、私の方からは、資格の必要性・重要性・無意味さなどについて、完全なる客観的な意見を述べたりすることはできません。

 そこでここからは、主に

・【ITエンジニアになりたい】

・【業界に就職・転職出来たけどなんの資格も無くていいのか】

 と悩まれている方向けに、僭越ながらアドバイスをさせていただくと、以下のようになります。

 

2.資格の勉強をする気が起きなければ、取らなくて良い

 もし

「資格取得なんて時間もお金もかかるし、それより早く就職したい……」

「肩書きや履歴書を埋めるより、自主制作のアプリを作った方が良いという声もあるし……」

 と迷われている方へ。

 その考え方は間違っておりません。

 1日でも早く実務経験やIT関連のスキルを磨く方が圧倒的に重要です。

 なんだか突き放したようなアドバイス且つ今の私が言ってももはや説得力があるのか、という感じですが

 そうです。やる気があれば取れば良いし、起きなければ取る必要はありません。

 

 私の場合、会社から言われたというのもありますが、どちらかというとIT関連の知識に対してあまりに無学&無関心だったと自認しているという点が強いため、資格取得の準備に取り掛かったという経緯があります。

 正直、資格ホルダー自体はどちらかというと会社のためです。

 

 上述した通り、実務経験や自己鍛錬によって培われたスキルの方が何万倍も重要です。

 特に10代、20代の若い方こそ、貴重な時間を資格勉強に費やすことによって得られる効果が低いです。

 その年代ならば、未経験・非大卒でも雇ってくれたり、IT経験を得られる機会はたくさんありますし、早いうちに実務を身につけたほうが絶対に良いです。

 経験を重ねたベテランエンジニア、特にバリバリのフリーランスの方でも、ITに関わる資格を何も持っていないという方はたくさんいます。

 なので、この業界を選んで入ったからには、ご自分のやりたいことや学習したいことを重点的に学び、その道を選んだ方が確実に無駄がなく、有意義な人生時間を過ごすことができるでしょう。

 

3.資格は取りたく無いが、やはり必要に迫られている方へ

 それでも、このページを見ていらっしゃる方の中には

  1. 「会社から言われた」
  2. 「昇進や昇給のための足がかりにしたい」
  3. 「未経験だし無資格だと不安」

 だけど

「本心としては(資格の)勉強なんかしたくないんだけど」

 という方もいらっしゃると思います。

 

 繰り返しになりますが、取ろうとしなくて正解です

 これは別に他人事だから言うのではなく、本心からそう思います。

 

 IT界隈で仕事をするなら、勉強しなければならないことが山ほど出てきます。

 資格の勉強などは、その中のほんの一部分でしかありません。

 もし

 会社から取れと言われて、気乗りしなければ取らなければよいし

 収入やポジショニングのためなら他に良い方法がいっぱいあるし

 無資格でも経験を積む方法は他にたくさんありますし、不安になることはありません。

 

 会社から言われたことを無理やり勉強することはないのです。

 もし仮に、例えば勤めている会社が客先常駐で、どうしても就きたい現場ややりたい仕事を、資格を取らなければアサインしてもらえない会社だとしたら

 自分にとって何が大事なのか、ということを考え直す方が良いかもしれません。

 で、なければ、生涯会社の言うことや他人の思うがままの人生を歩んでしまう可能性すらあります。

 

 なぜエンジニアはこれほど自由度の高い仕事であるのでしょうか?

 高収入、ハイスキルでも資格にこだわっていない方が山ほどいるのはなぜでしょう?

 それは、この業界がやりたいことをやりやすく、その立場や環境にも身を置きやすいからです。

 

 もし他者に言われて取る必要があり、且つご自分でも取りたくない、と言うケースであれば

 転職等も視野に入れましょう。

 それくらい資格を得ることの重要性及び費やす時間というのは、人による部分が大きいのです。

 

4.結論の結論

 ここでもう一つ、まだ経験の浅い私からでも言えることがあり、未経験・経験者関わらず、【それでも資格を得た方が良いかどうか悩まれている方】にお伝えしたいしたいことがございます。

 資格の勉強に費やす予定だった時間の一部を切り取って、もう一度ご自分のエンジニアとしての現状及び将来のビジョンを熟考してください。

 資格の重要性・必要性は人によりますが、これはもっとその人によって結論が違ってきます。

 例えば、全く未経験の方が基本情報技術者の試験に合格するのに必要なタイムコストは、200時間とも500時間とも言われています。

 その一部を、もう一度自分のやりたいことや未来について考え直す時間に置き換えるのは容易なはずです。

 そうすれば答えは見えてきます。

 もしかしたらすでに、ご自分の頭の中では答えが出ているかもしれませんね。

 

 今の私の場合でいうと、資格は必要ではないですが、資格の勉強そのものが自分のためにはなるので勉強しています。

 でもそれも、途中でこれ以上は不必要だと判断すればぶっちゃけ投げちゃってもいいわけです。私も会社に依存して生きていきたくありませんし。

 

 そうです。

 何度も言うようですが、本当は資格なぞ必要ではないのです。

 ご自分のやりたいことを勉強・練習(インプット)し、発信(アウトプット)を繰り返す方がよっぽど大事です。

 これが「資格の必要性は人による」という結論の出した後に出せる、もう一つの結論です。

 

5.最後に

 資格は、どこまで行ってもその過程で得られる学習内容及びホルダーの二つでしかありませんし、その人の実力を証明するものには到底なり得ません。

 それでも資格を取りたい方がいれば取ることに何らかの意味はありますし、取りたくなければ拒否する、または取らなくてもよい環境・状況を自分で作る方が重要です。

 知識や技術を得ることに貪欲な方は両方取り組むのもアリですし、最小限で最大の結果を、と考えるなら、それこそもう一つの結論のように、じっくり考え直す。急がば回れです。

 何事もそうですが、自分のやりたいことを最重要視し、社会や会社が資格の重要性を説いてくるからと言って、そんな理由だけで資格を取るのは時間の無駄でしかありません。

 自分のやりたいことをやり、経験やスキルを積んでいく。

 それさえ続けることが可能ならば、気づいた頃にはもはや資格云々で悩むことなどは本当に小さく思えてくるくらいになっていることでしょう。

 

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

にほんブログ村 IT技術ブログへ
にほんブログ村

ジョセフ・コンラッドが伝えたかったこととは?【闇の奥】

            <p> 最近このブログで、寓話を紹介する機会が増えている。すなわち、物語が読み手に多種多様な思想や感想を与え、教えを受ける作品といったものを。</p>

 

[amazon_link asins='B00H6XBCCY' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='8ba7ec71-2b72-4dc2-a169-d430288d32ab']

 

 ジョセフ・コンラッドの代表作【闇の奥】

 あらすじ(Wikipediaより引用)
ある日の夕暮、船乗りのマーロウが、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。

マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、未だ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でフランスの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。また、マーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツという代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。

中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いたが、蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。

ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。

奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"という言葉を残して息絶えた。

 

 本書は、古典文学としては比較的わかりやすいテーマを掲げている反面、様々な解釈が可能な、寓話的要素も含んでいる小説であるように思える。それはひとえに、クルツの最期の言葉「"The horror! The horror!"」(黒原敏行訳だと「恐ろしい! 恐ろしい!」)、この今際の際に発された言葉が、読んだ者全てに多種多様な想像力を働かせるからだ。
 【闇の奥】原題は「Heart of darkness」。【闇の心臓】【闇の心】とも和訳出来そうなタイトルだが、闇の奥とはアフリカの奥地のことをも表している。つまり訳の時点で多くの解釈が可能であり、先述の通り寓話的要素をのっけから差し出してくる。
 文化の行き届いた国と、植民地支配の国の奥底。そこで見た主人公マーロウとクルツが抱いた真実は、果たして同じものであっただろうか。登場人物すらも各々の立場、見方、境遇から様々な思いを抱いたまま、物語は終焉を迎える。まさにこの小説の主張の真相こそ闇そのものとも言えるのだが、白人至上主義とアフリカの奥に存在する未開の地及び差別・階級意識。こういったものが、いつの時代にも通用するテーマになっているくらいに、全体主義、支配、差別というものを主軸に動くテーマが躍動するほどに、人間はいつの時代も変わらないものなのだろうか。
 きっとそうなのだろう。真実を書いても、それぞれにとって都合の悪い点を光で照らしても、史実や人の感情は簡単に捻じ曲げられてしまう。実際、この小説に影響を受けたとされている、村上春樹の「羊をめぐる冒険」ですら、読み手によって様々な解釈を生み出した。つまり、寓意だ何だと言っても、この小説そのものが人の心の闇を書いたのではなく、読む者がこのような物語を自分の中で意味を勝手に産み出すのだ。それも自分に都合の悪くなりすぎない程度に。
「今のアフリカがどうしてこんなに混沌としているのかがわかる」
「未開人の恐怖と白人の責務を書いている」
「白人に留まらず人間の原罪を問いかけた話」
 など、あらゆる解説やサイトを見ても、その感想や結論はバラバラだ。もちろんどれも間違っていない。
 しかし、世界を内包する光と闇が、人間の心そのものと変わらないものであるとしたら、それこそ人間が作り出した光と闇というものは、何と自分勝手なものでしかないのだろう、と私は思う。

 

 コンラッドがこの小説をもって何を伝えたかったのか、真意は何か、ということは、わからない。

 だが一つ確かに言えることは、「人は、本当の意味での自分の心の闇の奥底を覗こうとはしないし、出来ない」ということである。


 かく言う私も、この本を読んで世界や人類といった曖昧な悪を考えるまでには至ったが、自分の心に存在する“都合の悪い部分を含む”闇の奥を覗こう、とは思わなかった。

【山野一】無間地獄とも言える不幸の連続。それでも。【四丁目の夕日】

            <div class="freezed"> </div>

 はい、こんにちは。今回は山野一氏の伝説のコミック【四丁目の夕日】。

 トラウマ級の漫画として有名なので、未読の方はいろんな意味でお気をつけくださいませ。

[amazon_link asins='B00SAKUA66' template='CopyOf-ProductCarousel' store='booksite06-22' marketplace='JP' link_id='b9a3c0e2-e6d3-4375-91f3-c5311ace314c']

 

……この本とにかく暗いから、本当は書いて記事にするつもりはなかったのだが。

 でも、ブログやフェイスブックなどのSNSを見ていると、やはり人には人それぞれの幸福だけでなく悲しさや苦しさなど多種多様な人生があり、中には主人公とシンクロしてしまうような人もいるのではないかと思い、再読に至る。

 そして、書評にしてまとめた次第である。その結果ちょっと気付いたこともあったし。

 

 この本のあらすじはだいたいこんな感じ。(カッコ内は作品の内容に対する私の突っ込みどころ)

 一橋大学合格を目指す受験生の主人公。彼は金持ちの友人と学校の昼食時間中に、「ウチは浪人はおろか私立だって無理なくらい貧乏だから」といった話をする(例えば、奨学金や給付金制度の整っている大学に行くという手もあったと思われるが)

 その後、主人公の彼女とちょっとした口論が元になり、逃げられる。それと同時に、暴走族に襲われる。

 ↓

 彼女はほぼ何もされていない状態で、主人公は別の場所で思いっきりボコボコにされた後、それぞれ偶然通りかかった金持ちの友人のおかげで助かる。主人公は友人と共に命からがら帰宅。ちょうどその時、母親が家でゴミを燃やしていたとき、スプレー缶が爆発するという事故を起こしていた。その場にいた母親は大怪我をする。一家の困窮が幕を開ける。

 ↓

 工場経営者である父親は、医療費と主人公の大学の費用を稼ぐために、寝る間も惜しんで働く(もともとヤクザから金を借りて事業を起こし日々の生産を回していたという自転車操業だったのに、稼働時間を増やし医療費を稼ぐとか無理ゲ―)。その結果、疲労の影響で事故を起こし、父親死亡。家には莫大な借金が残る(何故労災がおりなかったのか)

 ↓

 ヤクザから激しい取り立てを受ける。主人公も葬式の最中、人前でボコボコにされる(こんなことがあったら即警察沙汰になってもおかしくない)

 ↓

 主人公は大学受験を諦め、幼い弟と妹のために、父親と同じ仕事である印刷工に就く(金持ちの友人に、頭を下げてでも”頼る”ということを考えればよかった)。新たに住み始めたアパートも隣にキ〇ガイがいるような劣悪な環境。

 ↓

 生活は貧しくとも、安定した日々が続いていた……かのように見えたが、慣れない重労働や会社の人間のパワハラなどが原因で、主人公は精神を壊しはじめる。たまたま数年ぶりに出会った金持ちの友人や元彼女との会話のシーンは、もはや正常な人間のそれではない(何故これほどの事態に陥る前に、誰もちゃんと気付いていなかったのか)

 ↓

 家で弟の誕生日を家族で祝っている間に、隣に住んでいるキ〇ガイが斧を持って来襲。妹と弟を惨殺。主人公はその瞬間完全に理性が切れて、キ〇ガイの持っている斧を奪い、返り討ち。そのまま外に出て、通行人を次々と殺害。取りおさえられた後も責任能力がないとみなされ無罪となり、精神病院へ入院(こうなる前にry)

 ↓

 30年余りの月日を経て、退院することに。清掃員の職を与えられ、ようやく第二の人生を始めることになる。

 

 うーん、ひどい漫画だ(直球

 所々突っ込んでみたものの、これは漫画の内容に対するダメ出しの意図によるものではない。

 

 確かに、これほどの不幸の連鎖を繰り返す前に、対処できることはいくらでもあったはず。そしてそこでくい止められていれば、後続の悲劇に繋がらなかっただろう。

 人間堕ちるところまで堕ちるシナリオを用意されたら、本当にどこまでも転落していくことが出来るのである。そして一度、不幸の連鎖という火蓋を切ると、もう自分の力では抜け出せなくなる。

 そんな一人の人間の弱さを、この漫画は描いているのである。

 

 例えば、先述の私の短絡的な意見で、部外者が「そうなったらこうすればよかったのに」と口を挟むかの如く、突っ込むのは簡単だ。

 しかし、ほんの少し不器用であるがために、最善を尽くすことの出来ない人間が、この世には山ほどいる。

 ましてや、昭和の殺伐とした町と工場を舞台にしているのだから、自己を救済する考えに至らなかったという背景もあるだろう。

 今の世の中だったら、一度何かあっても、少し人の力を借りれば、何とか不幸の訪れをくい止め、人生を持ちこたえさせることはそう難しくない。頼れる人に相談したり、福祉や支援、法律の窓口に足を運べばいいのだから。

 

 早い話、この主人公は父親が死んだあたりで、もう人間不信に陥っていたのであろう。

 誰も信用できなくなり、誰も頼れない。この漫画ではそういった描写はないが、本当にそれほどまで悩んでしまったら、人はもう幸福とは程遠い人生を送ってしまう。

 悲しい。

 常に、救いの手は身近にあったのに、その道を選ばずに、愚直に働き、最終的に狂う。でも人生って意外とこんなもの。地獄はこの世の中に確かに存在するのであるから、そこに嵌っていったと同時に誰かに助けを求めたりしなければ、底なし沼のように沈んでいくしかないのである。人一人が発揮出来る力なんて儚い。

 今の、SNSなど別の形でコミュニケーションが生まれたりした、平成も終わろうとしている世の中で、この本が教えてくれるのは、

「困った時は誰かを頼っていい」

 ということだ。

 陳腐なまとめに見えるかもしれないが、実生活上で生きていく上で大事なことは、本当にそんな簡単なことから始まる。

 この作品の文学性は高い。だからこそどんな苦しい立場にあろうと、読者は自分の人生に主人公と当てはめて考え、自滅という道を選ぶようなことはしてはいけない。僕はこの本を再読した時、それを学んだ。