ライトノベル【人類は衰退しました】で好きな言葉達

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 関連画像付きで、1巻から9巻までの名セリフをコメント付きで紹介します。

 


「畑仕事より楽かなーと」
(1巻:P27)

 この時点でわたしちゃん(主人公)の性格や作品の方向性が見えました。

 

「しかしよく電球なんて作れましたね……齧歯類風情が」
(2巻:P72)

 時折見せるこの毒舌ぶりもこの作品の魅力の一つです。

 


「蟻の巣に水を灌ぐ遊びももう止めます。
 社会の歯車になるのはイヤだなんて言いません。
 共同農作業にもちゃんと参加します。仮病使って休んだりしません。
 夢のある仕事でないとイヤだとか曖昧な贅沢言いません」
(2巻:P128)

 読んでる側にもいちいちチクチク突き刺さってくる言葉ですね。

 


「ごちそうさまぁっ♪」
(3巻:P20)

 名台詞というか名シーンでしょうか。台詞としてはその後のおじいさんの(「森の仲間という概念自体がひとつの壮大な欺瞞だと思わんかね」)の方が唸らされるかも。

 


「わたしったら、つい“良くなかったこと探し”をしてしまう癖があって」
(4巻:P26)

つぎはぎ娘さんの悲痛な心の表れ? というか愛少女ポリアンナのパロディですねこれは……

 


「お姉ちゃん今日の夕食は?」
「もち肉よ」
(4巻:P124)

そんな彼女も食料が空から降ってきて、良くなかった探しはもうしていないとのこと。

 


「アランは森で飢え死に。
 ベッキー谷にまっさかさま。
 カール馬車にひかれて
 デラは波にさらわれ
 エドガー野犬のごちそう
 フローラのこぎりばらばら
 ジェフがすべてのはんにん
 おしまい」
(4巻:P76)

 名前の頭文字がアルファベット順になっていた、ということはアニメを見て気付きました。

 


「おめーのせき、ねーです?」
(4巻:P138)

 名台詞来たれり。イジメか……

 


「ほうき頭!」
(5巻:P33)

 後半の主要人物Yとの出会い。わたしちゃんの心中を察するシーン。

 


「うけいれがたい、かくばりぐあい」
「かえさるのものはかえさるに。ひとのものはひとにおかえしです」
(5巻:P64)

 この後妖精さんはすぐに甘いものを受け入れますけどね。

 


「それはもう、やさしげなにんげんさんでしたなー」
(5巻:P74)

 妖精さんのYに対する感想。まだこの時はわたしちゃんと妖精さんとの距離感も近くなかった。

 


「仲よくしたい人なんていないからです。あなたも含めて」

 わたしちゃんが“巻き毛”に対して。5巻は名言、というか名シーンの宝庫。というか私が一番好きな巻。

 


「ひとりは……いや……です」
「それはたやすいねがいです?」
「おともにー」
(5巻:P82)

 全てはここから始まった、と言ってもいいかも知れない。

 


「ぼくら、だれかいれば、あいにいけます」
(5巻:P166)

 次のページをめくった時に見た挿絵と共に、涙腺が潤むワンシーン。

 


「わたしは善人でも悪人でもないようです……って、え?善人じゃ……ない……?」(5巻:P190)
「さっきまでの美人、面影もなし」
(5巻:P254)

 ウィザードリィ世代には爆笑モノ。わたしちゃんの内面がポロっと。

 


「裏切り者め!自分だけ……そんな充実ライフを……見ていればいい!そちらがノンケにかまけるつもりなら、その間に私は栄光を手に入れてやる!この道を究めてやるからな!」
(6巻:P137)

 腐女子道はかくも険しいものであった……

 


「知ったことじゃない!衰退だなんだ、知ったことじゃない!こっちはまだ子どもなんだ。これから生きていかないといけないのに、ぜんぶ終わったみたいに言うな!」
(7巻:P114

 まるで現実世界の少子化問題などにもメスをいれるかのごとく、里の子どもの精一杯の台詞。

 


「文庫本にして六冊分くらいの数々の大冒険を、生き抜いてきたつもりです」
(7巻:P178)

 ありそうであまりなかった「人退」メタ発言。この巻も入れて7冊分。

 


「『うわっ!私の高度、低すぎ?誰よりも高い世界に行ってみたくありませんか?』」
(8巻:P26)

 今読み返してもこのバナーの顔を思い浮かべてしまうのは筆者だけではないはず。

 


「窓越しに吠え面がみられますよ?」
(9巻:P173)

 夢の世界に行こうが月に行こうが、「人退」はいつだってブラックとシリアスの間を行ったり来たり。「アホ!」

 


「また落ちかかった!もう私は飛ぶものには乗らない、決めた!」
「Mさーん、ご無事ですか!」
「お姉さーん!助けに来ましたー!命の恩を売りに来ましたよー!」
「隊長殿!自分は、昔取った杵柄で操縦任務を見事に達成したであります!」
「……敵いねーの? 月星人とかいねーの? バトルなし?」
「姐さん、良かった! 心配しましたよ! 自分もう、正直駄目かと……本当に良かった……ううっ」
(9巻:P262、263)

 わたしちゃんはひとりじゃなかった。それもこれも妖精さんのおかげ?

 

 …………これでおしまい。もち他にもたくさんあるよ。

 
 ちなみに筆者はまだ「人類は衰退しました 平常運転」の方は半分くらいまでしか読んでません。

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 読んだら本当に最後になってしまうような気がするから
 ……と綺麗にまとめるつもりはなく、最近忙しいから(汗


 ファンタジー世界よりも

 

 すいたいしているのはげんじつせかい?

課題その2:4月までに基本情報技術者とOracle Java Bronzeの資格を取れ

            <p> ↓前回までのあらすじ↓</p>

http://kenjinia.com/?p=281

 3ヶ月で楽天サイトと同程度のECサイトを作りなさい、と会社に言われた大熊(私)は、「1週間で出来らぁっ!」と大見得を切る。そして10日以上経った今、どうなってしまったのか?

 

 そしてその結果

 

笑われました。

 

 まあ、つまりは出来なかったということなのですが、そもそも人事側も、1週間で出来るわけないだろう、と思っていたそうです。そして笑う準備もしていたそうです。

 

 こう書くと、企業側が意地悪のようにも見えますが

 普通に一番いけないのは、採用が決まった際に、今の自分の実力や未熟さを知らずに、大見得を切って「1週間で出来る」などと宣った自分です。

 これがもし、会社の課題や研修などではなく、実務作業だったり、お客様先へのリリースだったら

 納期寸前に「出来ませんでした」は一番最悪なパターンです。

 もちろん、実際の仕事ではないし、採用されて調子にのったついでに見栄を張ってしまったという背景もありますが

 大言壮語を吐いて結果を出せなかったという事実は何一つ変わりません。

 これに関しては、多くの方に対し、反省しなければならないところです。。。

 もう決してこのような、自分の実力も把握せずに大きく出るだけ出たりすることの無いように。

 

 さて

 そのECサイトを1週間ではなく、通常の3ヶ月以内に作りなさい

 という課題は継続するとして

 それとは別に、会社からまた課題を言い渡されました。

【4月までに「Oracle Certified Java Programmer Bronze(通称ブロンズ)」及び、同月に開催される基本情報技術者の試験に合格しろ】

 

 

 つまり資格取得です。

 

 会社側の言い分としては、今の私の実力では

「今の段階では、あなたを自社で行なっている開発案件に参画させることはできません。その代わり客先常駐という形で派遣するため、研修期間中に資格を取って少しでも良い現場にアサインされるよう努力なさい」

 とのことです。

 ・・・流石にそこまで宣言されると私もちょっとばかり許容できない所もある。

 資格云々はひとまず置いておくとしても

 一応面接の時既に、今回の会社が、自社開発以外に請負や派遣といった客先常駐もやっていることは知っていたが、私を自社開発のプロジェクトに回すという話はそんな形で無効になり、代わりに現場ガチャを回すことになるのか、と。

 別に客先常駐を極端に嫌がっている訳では無いが、今後のスキル面や待遇以上に、会社に対する不信感が付きまとってしまいました。

 でも、見栄はって嘘をついたのは元はと言えば自分。

 自社開発に浮足立っていた私は、あーあ、と思ったけれど、仕方ないですよね。

 

 さて、本題に入ります。

 先ほど述べたように

基本情報技術者

 と

【オラクルのJava ブロンズ】

 この二つに合格しなければならなくなりました。

 年中試験が行われているブロンズはともかく、基本情報は半年に一度の試験で、次の試験日は残り3ヶ月間。

 もともと勉強の苦手な私が合格できるのか、正直あまり自身がありません。

 しかし、会社側のお達しです。

 私は今度こそ、こう返事しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃなかった(汗)

 

「やります」

 と。

 出来るじゃなくて「やります」なんて、出来なかった時の保険みたいに聞こえますし、実際そうですが

 もし今度また大見得切ってその時になって「出来ない」、なんてことになったら、今回こそ冗談抜きで処分の対象になってもおかしくありません。

 なので頑張ります。

 エンジニアの資格取得は費用対効果が悪い、と前記事であれほど言ってきたにも関わらず

 成り行きがあるとは言え、結局目指さなくてはならなくなるなんて

 なんて私は一貫性のない人生を送っている人間なのかしら、と猛省しました。

 加えて

 ECサイト作りも今回の資格取得も、そして普段の仕事も勉強も、全て本気でやらなければならないということが身にしみてわかりました。

 そうです。

 人は本気を出さなければ例外なく良い結果が出ないのは誰でも同じ。

 

 と言うことで

 早速取り掛かります。

 Javaブロンズ】の資格と、平成31年4月の基本情報技術者試験

 絶対合格のために頑張ります。

 

 今日もこんな時間(午前 2:30)に起きたのは、必死で勉強するためです。そしてブログ書くため

 

 更に、もし、今度の基本情報技術者試験を受けようと思っている方がおられれば、一緒に頑張っていきたいな、とも考えています。

 

 よーし!!

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自分を受け入れることの勇気「クズころがし」

            <p>本書に書かれてある通り、鈴木拓氏がクズかどうかは置いておくとして</p>

世の中に自分を客観的にみられる人がどれくらいいるだろうか。

正直恐ろしい。何故この本は読む人をここまでハッとさせるのか。一つ一つ解析していこう。

 

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 コンセプトとしては、為末大氏のこちらの書籍に近いものがあるが↓

http://kenjinia.com/?p=388

 

まあ、テレビに出演しているドランクドラゴンの鈴木氏を見ればわかる通り、少なくとも為末氏のイメージや哲学的な視点に関してはまるで趣が異なっている。

 

・才能がないものは努力をするな

・夢にしがみつくのは「ただの屍」

言ってはいけない「今が一番幸せ」

 

特に私の心情に一番グサッときたのは、「今が一番幸せ」という嘘くささについて、だ。

例えば

「人生で、今という時が一番若い」

「今を生きろ」

人はよくこのようなことを宣う。

しかし同様に、今が一番歳を取っていることに誰も言及したりはしない。

その今現在、うだつが上がらない状態であるにも関わらず「今を生きろ」という言葉の意味のなさ。

決してアンニュイな意味ではなく、本当にこれらの言葉には意味がない。

そう、嘘でも傲慢でもなく「意味がない」のである。

そして、人なんて99パーセントは才能なんてないと言い切る鈴木拓

少なくともその言葉に、私は嘘偽りなどこれっぽっちもないと言い切れる。

 

世の中、新たな職業がどんどん生まれていくが、その中で良い思いを出来るのはいつの時代もほんのごく一握りだ。

プロブロガー、Youtuber、投資家、フリーランサー、ティックトッカー、etc...

しかも、最近はネットの流行で、一部の成功者が、才能がなく埋もれていった人に対して煽ったり、一流を目指すように指南してくるという始末。

まあ、誰がとは言わないですけれど(笑)

 

❝努力❞

 

これほど人を勘違いさせ、裏切るものはない。

そして自分に酔いしれる材料として、これほどわかりやすいものもない。

しかし、人は努力をする。何のために?

たいていの場合、自己満足のためだ。

家族を養ったり、誰かを救ったり、そんなつもりでやるわけじゃない。

そのような大事なことを、努力して達成しなければやらない状況に自分を追い込んでいる時点で、その人は99パーセント終わっているし、自分だけでなく身近の人間や多くの人に迷惑をかけている。

90年代に連載されていた、すごいよマサルさんというジャンプのギャグ漫画にも書かれてあった。

「無駄な努力ほど無駄なものはない」

 

私は、(個人的に鈴木氏がクズとは思わないのだが)努力という言葉が大嫌いだ。

何故なら他人だけでなく、他でもない自分自身のこともさんざん裏切ってきたから。

本書にも書かれてある通り、成功してきた人や境遇なんて、本当に“たまたま”。

たまたま成功できるチャンスや運があり、たまたま時代が合っていたから。

すると、一部の識者ぶった人間はこう言う。

「普段から努力を積み重ねてきてその下地があったからこそチャンスをつかんだものも大勢いる」

それはそうかもしれない。

でも、それでも屍となって花を咲かすどころか土の中から芽を出すことすら叶わぬ人間がどれほどいるか、そう言う人はまるでわかっていない。

そして、くどいようだが、鈴木氏をクズと思わない私だが

同様に、一芸に秀でいることも出来ず芽も出せないその他大勢の人間のことも、当然クズだなどと思わない。

早い話、巷でよく聞く

「自分が成功できたからアナタにもできる」

という甘言は、とても傲慢である以上に大きな間違いでもあるということである。

【期待は感情の借金】とは、「夢をかなえるゾウ」のガネーシャもまた言っていたが

現ナマの借金をひどく嫌う人間も、自分自身に対する期待は大きく弾ませる。

私にはその神経がわからない。

 

鈴木拓氏はサッカーを誰よりも練習していたのに、監督の肩を揉む形でその道を閉ざした。

26歳の頃からレギュラー番組をもっていたのに収録に呼ばれるのは3カ月に1回。

それでも、鈴木氏が誰よりも真剣にやってきたことと言えば、

「自分を知り、受け入れること」

ではなかろうか。

 

何故、人は他人になりたいと思うのだろう。

成功してきた人間はただ単に「その人」なだけであって、「自分」ではないのに。

この国の横並び教育や同調圧力が災いして、今のネットのトレンドは専ら

「自分にしかできないことをやれ」

「好きなことだけやって生きていこう」

「ブランド人になれ」

「行動する前に考えたら負け」

と言って発破をかけることだ。

 

もういい加減気付くべきだろう。

そんな言葉にときめく時点で、自分は何物でもないということを。

それを自覚したり、ありのままを受け入れることが出来なければ、成功者やクズとか云々以前に、その人がその人である意味を失う。

当たり前のことや常識は疑うべきことも多いが、まず気付かなければならないのは、既成概念や努力していることに酔いしれている自分がそこにいるという事実だ。

 

そんなことを、この「クズころがし」という本で、私自身も教えてもらったのであった。

エンジニアとしてのメンタル

            <p> 私は、工場勤務を十数年以上行なった後、IT業界に就いてかれこれ2年目が経ち、気がつけば年齢だけで言えば、もう中堅に差し掛かるくらいの者です。</p>

 私は過去記事では、よく年齢を引き合いに出しつつも、エンジニアとして就職できる方法論などを書いて来ましたが

 そちらの記事中でも書いたように

 エンジニアの業務を行うに当たって、やはり最も重要なのは

 

・体力

 

・精神力

 この2つです。

 あとは、理系の大学を出ているとか、数学が好きであるとか、論理的思考能力が得意であるとか、様々な適正のようなものがありますが、上記二つの重要性に比べれば、あってもなくても誤差の範囲内です。

 なので、たとえば数学が中学レベルで未経験だけどITエンジニアになりたいという人は、私が改めてここで答えるまでもなく、過去にそう言った前例も沢山あるので安心して目指すといいと思います。

 

 そして、とりわけ大切なのは、2番目の精神力です。

 その次に、その精神力を支えるための体力が必要です。

 なので、まず、必要最小限の体力を鍛えながら、精神力をキッチリ磨く、というタスクが必要になってきます。

 しかし

 今回の記事では、いつものように「どうやったら強靭な精神力が身につくか」と書き方はいたしません。

 その大きな理由が2つありまして

 

・まず私自身が、先日、先輩社員に「あなたは技術力や覚えるスピードはともかく、心の自己管理や気持ちの切り替えをもっと上手くできるようになった方がいいでしょう」と言われた身分であり、精神力の鍛え方云々について、人様に答弁を垂れる資格は全くないこと。

・自分を鍛える方法や論理、生き方などは人によって全く違っており、一般論だけではとてもその全てを語ることなど出来ないから。

 

 以上に集約されます。

 それでも、私もエンジニアの端くれとして、そしてアウトプットの一環としてブログをあげている身としては、精神力というものについての一生の課題を避けて通るわけにはいきません。

 そこで今回は

【どうすれば体力や精神力を鍛えるための土台を作れるか】

 という部分にフォーカスを当てながら書いていきたいと思います。

 そのため本記事においては、主観的な要素が多数詰まっておりますことをご容赦いただけたら幸いです。

 

[toc]

 

1.自分を知る

 

 いきなり結論を書いてしまいます。

 そうです。

 

【自分を知る】

 

 これがメンタルを鍛える前に行うことの全てであり、極論、これ以上のことはありません。

 

 まず行うことは「自分を知る」ことです。

 自分というのは何が得意で何が不得手なのか、という小手先の技術も大切ですが

 私の話をすると、最近私自身が意識している事について

「自分が無意識のうちにやっていることは何か」

 ということを考えるようにしました。

 意識しながら無意識にやっていることを考える、などと書くと、まるで禅問答のように聞こえますが

 これが意外と自分を知ることの第一歩のために役立ったりします。

 例えば

 ◯時から△時まで、プログラミングの勉強を夢中でしていた、疲れた時にスマホで趣味のゲームをやっていた、誰かとお喋りしていた、寝ていた、etc...

 なんでもOKです。

 自分を知る上でまず出来ること・簡単なやり方は

「自分が一日を通して意図しようとせずにやっていたことを振り返る」

 ことは有効だと思います。

 もう少し言うと、一番はじめに何かを達成しようとして計画を立てても、なかなか達成できず、気がつけば失敗・挫折してしまった、という経験は誰しもあるかと思われます。

 そこで、計画を立てるにしろ、実際に行動に移すにしろ、まず行うのは自分を知り、そのために自分の一日を振り返ることです。

 その上で、我ながら自分はよく頑張ったと思う事に関しては引き続き続けていけば良いし、直さなくてはならない時間の使い方が多ければ、それもまた良い方向に是正していけば良い。

 それらの繰り返しで、人は、いちいち失敗や挫折に怯えたり自信を無くしたりする事なく、人生時間を有効に使うことができます。

 また例を挙げると、これまでの私の場合、すぐにまず計画を立てて即座に行動し、それらの結果に一喜一憂するということが非常に多かったので、つい最近より、上記のタスクを行い始める事によって、シンプルでありながら自分を少しずつコントロール出来る希望が湧いてきました。

 

2.いきなり目標が見えてもすぐに計画を立てたり行動したりしないようにする

 

 本記事の大筋としてまずアプローチしたいのは、【1】の「自分を知る」ことと、こちらです。

 何故なら、自分の能力や時間の使い方など自身のことをわかっていない人は私を含めて意外にいて、その上で計画や行動に移しても、理想通りにはなかなかいかないからです。

 まず行うことは、繰り返しになりますが、自分を知ることです。

 いきなり最初に自信や希望を抱きつつ実際に行動を起こすのは、良い事のように見えて諸刃の剣でもあります

 例えば、「フリーランスになって稼ぐ」「フルスタックエンジニアになって世界を股に掛ける」など、ITエンジニアのキャリアプランという面一つとっても、目標や夢を抱いておられる方は少なくないと思います。

 しかし、自分を知り、相手を知る前に、まず手や足が出たりするようではいけません。

 何故なら、そのフェイズすら行わないうちに失敗してしまったら、それまでの行動が水泡に帰してしまうばかりでなく、挫折して自分に自信を持てなくなり、最悪今後の人生に悪影響がでる恐れもあるからです。

 まず、【1】の、自分を知る事から始める。それから、そのさきを思考し、行動することか決める。

 当たり前のようでいて結構できていないというパターンがあったりするので、これに関しては何としても意識するようにします。

 

3.自分と他人を比べない

 

 はっきり言います。

 自分と他人を比べて良い事など一つもありません。

 人は、順位づけや、人気のある物を選択したりするのが好きですが、それでも自分で自分を引き合いに出すのだけはやめましょう。

 相手の自慢話は、もしウザいと思っても軽く聞き流せば良いし、ましてや自分が自己顕示欲を得るがために目の前の相手を見下すなど以ての外です。

 この、自分と他人を比べるという、現代の競争社会で生きていく人が抱きがちな悪癖を取り除くことは、口で言うほど簡単なことではありませんが、それでも何としてもやめなければなりません。

 何故ならそれは、メンタルを鍛えるにあたって最も重要な前提事項である「自分を知る」という上で、最悪の思考だからです。

 相手を見て己を知る、といった諺もどこかにあったように思いますが、それも直接自分と相手を比べて何かを成せるといったことはないですし、もしそれで矮小な勝利を掴んだとしても得られるのはほんの一時的な優越感と、一生つきまとう他人からの目線や自信のなさに悩む、というペナルティです。

 くどいようですが、自分を知ることは、自己の成長について最も大切な思考及び行動になりますので、そのために他人と比べてその線引きの上で自己を優劣の対象にするのは避けるべきです。

 

自分のことを、

この世の誰とも比べてはいけない。

それは自分自身を侮辱する行為だ。

 

- ビル・ゲイツ -

 

4.何があっても自分を責めない

 

 これは精神科医和田秀樹氏の著書に書かれていた文言なのですが、自分を責めるという思考は、人間、特に自分というものを卑屈に捉えがちな日本人にありがちな精神です。

 それは、悪いことをしても反省しない、という意味ではもちろんなく、日常生活や仕事を行う際に、些細なことで考えてしまう内容にも当てはまることがあります。

「プロジェクトに失敗したのは自分のせいだ」

「これはこうあるべきだ」

「〇〇さんは自分のやった事についてどう感じてしまっただろう」

「たとえ間違っていても初志貫徹、ブレないでやり続けよう」

 このように自己反省を繰り返しながら、一目散にやることをやっているというのは、一見美徳のようにも見えますが、それは大きな間違いです。

 上記のような考え方はむしろ、自分というものを知るために大きな障害となる考え方で、いわば他人や社会が作った評価軸で動いています。

 そうなると、その後に待ち受けているのは、自分ができなかったことを惜しむだけの多大な後悔であり、不幸です。

 たとえ人から「ブレている」「お前は何もわかっちゃいないし何も変わっちゃいない」と言われても、無視できるだけの、「自分を保つ」意識が必要です。

 正直、そういう相手だって、自分のことなどわかっていませんし、今後もわかってくれるなんてあり得ません。

 とかく、この国や社会は、下手をすればむしろ自分を責めることは良き反省に繋がるなんて考えすら蔓延していますが、そんなことをしても単純に自分が苦しむだけです。

 特に、仕事を行う上で、「自分を責めることをやめる」というのは、私自身も最近になってようやく心がけてやれていることであり、これを行うだけで人生観が全く変わってきて、随分とスッキリ生きていけている感覚を抱いています。

 

5.自分の生き方までググったりしないこと

 

 なんだかわけのわからないことを書いている、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんし、自分でもそう思います(笑)。

 とはいっても、意外と笑い事ではなかったりします。

 ITエンジニアは、自分のわからないコードや発想に至らなかったり、勉強したりする際にググるのは必然であり、基本タスクでもあります。

 ですが、勉強の仕方や仕事の見つけ方・お金儲けの方法などならともかく

 

 自分の人生の価値観や今後大切にしていきたいものまで検索してしまうのはいかがなものでしょう。

 

 そんなものは自分を知り、自分というものを確立した後に、さらに自分で考えていけば良いのです。

 例えていうなら、特に過去の私ときたら、様々なコンプレックスのために自分の生き方までネット掲示板の落書きに左右されたり、あまつさえ晴れてIT業界に就職できたにも関わらず、挫折と失敗を繰り返しの中で、わざわざ検索してまで自分と他のエンジニアさんのキャリアを無駄に重ね合わせたりしたものです。

 ITエンジニアとして生きるなら、まず目の前の自分がやらなければならない仕事を行った上でプロジェクトを成功させ、そのために自分が何をして何を習得し、そして自分がどのようにそれを成功させるか考え、更に自分というものを考える、、、

 と、帰納的に考えるのが単純かつ確実なやり方なのに

 私は「自分を知る」という大切なことを見落としてきたために、そんなことまで人に委ねて生きてきました。もちろんITに入る前からです。

 そのため、自分がこうしてはいけないな、と思ったことはすぐに切り捨て、まず自分の判断を自分でしっかり保つということを成さねば、何事も上手くいかないのです。

 別に、ググってスピリチュアルなものや宗教にハマるな、とは言いませんが、それでも自分が後悔なき人生を歩むために、検索してわかることと自分の中で答えが見つかっていることの棚卸しができるようになるのが理想かと思います。

 

6.最後に

 

 ここまで書いてきてわかったことですが、どれも“ITエンジニアとして”以外でも当てはまることですね。

 大事なことなので何度も書きますが

 

 最低限必要なのは

「自分を知ること」

 この一言に尽きます。

 あなた自身という存在は、世界にあなた一人だけだし、もちろん私という人間も私だけです。

 個よりも衆を考えることを良きとする日本社会の中で、これを行うことは、当たり前のようでいてすごく難しいことですが

 その分とても大切なことだと断言できます。

 私自身、今日自分で書いた記事をしっかり見返しながら、いつか自分というものを100パーセント確立し、後悔なき人生を生きていこうと心がけます。

 

 そして

 今回もこんな私事まで介入された記事を見にきてくださった方に、心より感謝いたします。

【羊と鋼の森】人間は皆、自分を表現する芸術家でありながら、そんな誰かを支える人【宮下奈都】

            <p> ピアノと調律師の物語。</p>

 一見、小説や漫画などの物語でもありふれていそうな題材である。

 

 では、現代の調律師の仕事をここまでわかりやすく美しく表現できている作品は?

 本から音が聞こえてくるわけがないのに、自分の中で音楽を聴く準備を整える心持ちになってしまう小説は?

 私が思い浮かぶのはこの作品だ。

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 羊と鋼、というのは、ピアノの素材のことを表すのだが、調律師を目指し、調律師としてひたすらに生きる主人公の成長物語をただ綴っただけのものではない。

 もちろんそういう解釈をしながら、最初から最後まで読んでも面白くはある。

 しかしそれだけではもちろんない。

 この作品の真髄は

 

・登場人物全員が主人公になりうるほど、個性豊かで感情移入しやすいこと。

・良い意味で読み手が常に裏切られる展開が、まるで人生そのものを表しているかのようである。

・メジャーな題材を難しく、しかし伝わりやすく書ききっていること。

・心理描写が繊細で、まるでピアノの調律のごとく崩れやすく、そして美しい文体

 

 その他、全てを書こうとしても書ききれないほどの特徴が、この文庫本にして260ページほどの分量に収まっている。そしてそこには、著者が強引に掲げるような独りよがりのテーマや御都合主義などとは無縁であり、だからこそまるで自分(読者)までもが登場人物の一員のように

「何かを表現する人」

「その表現する人を支える人」

 になれるような、優しい気持ちを抱ける。

 

 誰もが知るところである、スペインの画家パブロ・ピカソはこう綴った。

子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。

 

 人は皆、子供時代という過程を経て、そのまま生きていけばやがて大人になり、老いて一生を終える。すなわち、全ての大人は子供時代を体験し、芸術を嗜むだけでなく、自分で表現していた時期があるのである。

 本書に、物語の主軸になるような非現実的なイベントやデウスエクスマキナは存在しない。なのに何故これほどまでに「ピアノで表現したい」または「それを支えたい」と思うひとが、悩み苦しまなければならないのか、本書を読んで再考させられる。

 しかし、改めて本書の登場人物の心を探ろうとすれば、そして上記のピカソの言葉を借りれば、それも当然のことであるのだ。

人は誰しも芸術家、だから苦しむ。

 それを捨ててしまえば楽に生きられるのかもしれない。ピカソが言うように、問題もなにも、そのように生きていく人が否定されるいわれもない。

 だが、自己満足で終わらない芸術を伝え続け、世に広める。そしてそれを支える人が数多くいる。本の世界で言えば、まるで作者と読者の間柄のようではないか。

 もちろん、本の出版一つとっても、そこには編集者などの出版側、印刷屋や本屋や物流など、幅広い立場の人が他にも広く関わってくるのだが

 それでも芸術作品と言う分野の真の主人公は

 「それを作る人」

 と

 「受け取る人」

 の両方だ。

 

 話を本書の内容に戻すと、どこにでもいそうな平凡な主人公の外村青年は、高校生の頃に天才調律師の板鳥に出会い、調律の道に進むことを決意する。そのいく先々では、外村青年及び彼と関わる様々な登場人物が、誰かの人生を支え、時には支えられ、そしてまたある時には苦しみつつ、森を彷徨うかのように生きている。

 先述したように、大きな理不尽や物語そのものをひっくり返してしまうような展開はほとんどない。だが、登場人物が作中で抱く苦しみは千差万別で、本人及び周囲の人もそれに応える。

 この作品は、生きるという苦しみを芸術家及びそれを支える人の視点で書いているが、人生における対話や日常を描いたコミュニケーション小説とも取れる。

 すなわち、それが芸術であり、本書はその一部を象った作品なのだ。

 人は生まれ育った頃から芸術家であり、そしてそれと同時に芸術家を支える人。だから人生と言う名の芸術を感じずに生きている人はおらず、また、他者との生き方や支え合い、その大切さを知っている。

 最後になるが、本書はシンプルに

 

 芸術家と、芸術を支える人、そしてその人をまた支える芸術家

 このように人生と言う名の森の中をぐるぐる回るような表現で魅せた、素晴らしい作品です。

 

 まるで、本書を読了すると、登場人物に感情移入出来るだけでなく、自分が歩んできた芸術と言う道を教えてくれる感覚すら覚える。

 そして、また新たな芸術を求め、人は生きていくのだと思うに至った。

 

 ピアノを引く側と、そのピアノを調律する側。

 この本を読んだあなたも、どちらかに属する人なのだろう。

 

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【有川浩】旅猫リポート【文庫版】

            <p>    近所の本屋で平積みにされていたので、手に取って買った。</p>

 

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 最近映画化された、本作品です。

    有川浩の作品を読むのは久しぶりだったが、当方無類の猫好きなので、期待に胸を膨らませて読んだ。猫をテーマにしたものなら、と思って。そしたらーー

    良い意味で裏切られた。

    猫好きの人のための本かと思いきや、実はそうではない。猫と人間達の、それぞれの視点から描く群像劇で、非常に繊細な語り口と描写で進んでいく物語だった。

 

    主役は人語を解する猫のナナと、30代の飼い主ミヤワキサトル。5年前からずっと一緒に暮らしてきたのだが、とある理由で飼えなくなってしまった。「僕の猫をもらってくれませんか?」と、猫と青年は銀色のワゴンで最後の旅に出る。かつての同級生達など、懐かしい人達に会っていくにつれて、だんだんとサトルの秘密が判明してくる。

 

     猫の一人称と何人かの人間側の目線で話が進んでいくのだが、何と言うか、特に猫の独白の方の文体はあざといくらいなべらんめえな性格の口調は軽快で自由気ままな印象だ。でもそれが余計に暖かな雰囲気にさせてくれた。旅のリポートという形態と、それぞれの心情が複雑に交差し合って、とても良い雰囲気を醸し出している。
     人間と猫、永遠に言葉が通じ合うことはない。だからこそ一緒に仲良くなれた時は何よりも嬉しいし、互いの気持ちがシンクロした時なんかはひょっとしたら人間同士の付き合いが上手くいった時よりも嬉しい瞬間かもしれない。そんな絶妙な、猫と人間のやりとりが、文章から滲み出ている。
     そんな感じの文がずっと続いていくまま、サトルの秘密が解き明かされる時はーー

 

    まあ
    言ってしまえばストーリーそのものだけ刈り取ってみればベタではある。

 勘のいい人だったら、本書を読む前に、テレビや映画館での予告編で、だいたいのあらすじの見当はつくかと思われる。

 それでも本書に湧き出る独特の魅力は、その文体と話のマッチングにある。
   家族や仲の良い動物と離れ離れになって悲しくないわけがない。複雑な家庭環境や懐かしい思い出を後にしたまま同じ場所に二度と戻らない最後の旅をし続けて涙が出ないわけがない。ましてや、これがお互い絆の繋がったパートナーなのに……
     それでも

「こんな幸せなことって他にあるかい?」

    猫の癖に!

    やさしい。とにかくやさしかった。
猫と飼い主の最後の旅。ナナがサトルを見ている時の視点や感情は、サトルはじめ愛する人間に対する想いでもある。
    普段は普段でぶっきらぼうで気まぐれな態度ばかり取っている。でも、いざという時になったら感情は爆発する。してしまう。猫だけじゃない。人間だって一緒。みんなこうして生きている。離れられない情と情はどこまでもついてくる。

 

     こういう小気味良いリズムと良い意味でありきたりなプロットが、前向きでやさしい文字の羅列だけで読む者が味わえる、小説と読者の同調している。それはまさに、動物と人間が心と心で触れ合えるシンクロニシティそっくり。こんな表現は、有川浩氏だから書けるのだろうな。

 同じ人情味あふれる作品である三匹のおっさんも、あちらはギャグテイストではあるものの、根っこの部分は通ずる面がある。

 現代社会を生きる人に忘れ去られていかれそうな、子供の頃一番大切にしていた気持ち。大好きな人や街、家族、平静で当たり前の生活、それを守りたいと思う心。

 多彩なジャンルを書ける有川浩氏だが、他の作品だって、読めばまるで著者の優しさの一部を切り取った部分に触れる感覚を抱く気持ちに慣れてしまう。もちろんこれも。

何故、一部のフルリモートワークの人間はコミューター(通勤者)に対してマウントを取りたがるのか

            <p> おはようございます。</p>

 昨日から会社勤めを再開した大熊詩音です。

 

 やっぱりアレですね。

 いきなり自分としての本記事の結論を言ってしまうと

「会社勤め、全然嫌いじゃない」

 だって、お金(給料)のこととか保険とか、面倒くさいことはみんな経理や総務の人がやってくれるし

 仕事内容が毎日同じでなくても、数年、数十年、同じ現場や同じ通勤ルートというのも決して悪くない。

 

 しかしです。

 

 この数年前と違ってインターネットが爆速的に普及した今の世の中。

 

 フルリモートワークとしての働き方が珍しくなくなりました。

 

 もちろんそれ自体は素晴らしいことです。働き方の選択権は憲法で保証されている以前に、この国は他国と違い比較的自由度が高いですから。

 

 けれども

 

 フルリモートワークを行なっている、またはフリーランスと呼ばれるごく一部の人間の中には

 

 コミューター(通勤者)として会社勤めをしている人を馬鹿にする声が少なくないです。

 

 名前を出すのも、その人の宣伝になるから絶対に嫌なのですが

 

 最近ですと、炎上した某サロンの件などでしょうか。

 

 今回は

 

【何故、仕事場を選ばない一部の人間が、通勤しながら働く人に対してマウントを取りたがるのか】

 

 という件について考えてみたいと思います。

 

[toc]

 

1.本人がコンプレックスの塊だから

 

 真っ先に思い浮かぶのがこれです。

 企業に勤めているコミューターに対して

 

「通勤時間が勿体無い」

「無駄な会議や雑用が多すぎる」

年功序列が時代遅れ」

ニート社員の荷物になる奴らは馬鹿」

 

 コンプレックスの塊である“彼ら”は、口々にこう言います。

 

 えーと、あなたは何十年前の話をしているのですか?

 今時そんな社風の会社、中小はもちろん大企業でも減ってきてますよ??

 

 最近の日本では、ベンチャー企業が多数生まれたり、転職市場が活況になるほど会社員がキャリアチェンジしやすい

 いわば、会社員にとって、「選択次第で」かなり恵まれた環境であると言えます。

 それを、そこらのネットニュースや新聞に書かれた内容の受け売りで、日本の会社というものを悪いところだけくり抜いて、一括りにして考える、そのガラパゴス的な視野と短絡的な考え。

 

 どちらが時代錯誤で老害的な考えでしょうか?

 

 本当に、自分が言うのも何ですが、今の会社員ほど選択権の幅が広いキャリアはないと思っています。

 副業OKの会社も急激に増えており、政府の掲げる働き方改革には問題点も数多くあるものの、間違いなく良い方向にも影響を受けている企業や個人は少なくない。

 私も、通勤時間や休憩時間を利用して、スマホや会社のPCでブログを書いたり副業をしております。

 それでも、コミューターに対して、ごく一部の性格のねじ曲がったフリーランスの人間がマウントを取ってくるのって、やはり本人のコンプレックスが強いからなのでしょうね。

 

2.負け犬の遠吠え

 

 では、何故“彼ら”はそこまでコンプレックスが強いのか、ということを考えるに当たって、もう一つ思い浮かぶのが

「ただの負け犬の遠吠え」でしかないのです。

 

 日本のサラリーマンを「よく飼いならされている社畜」としかみられないのは、どう考えても

 

 本人たちはその社畜にすらなれない、ただの負け犬だからです。

 

 だって、そうでなければ、何故いちいち会社員の人やコミューターに対してマウントを取ってくるのでしょうか?

 やはり、何か本人たちの過去に相当嫌なことがあったとか、自分には会社員という働き方を真似したくても(能力的に)出来ない、という劣等感があるからです。

 

 それはそれである意味かわいそうなのかもしれませんが

 だからと言って、自分のやりたい仕事で毎日働いている罪もない人に対して喧嘩を吹っかけてくるのはやめてもらえませんかね?

 野犬や狂犬なら、保健所に通報すれば処分してくれますが、こういう輩はこちらが何もしていなくても情報化社会の隙をついて煽ってくるし、訴えようにも難しいですし、本当に迷惑です。

 

3.それしか芸がないから

 

 炎上芸・扇動・宗教の教祖的ポジション。

 “彼ら”は、色々なやり口または肩書きなどを利用して、相手より優位に立とうとしますが

 やっていることは共通していて、一言で言えば

 単なる洗脳で、それしか芸がない。

 もう一度言いますが、「洗脳」

 これしか出来ないのです。

 まあ、もう二つほど付け加えるなら「詐欺行為」「モラル無き金儲け」

 この辺りでしょうか。

 なるほどそれならば、“彼ら”が、チームで動くことが多い会社勤めの人や、しっかり社会のルールを守って交通機関に乗って通勤する人の輪に入れるわけありませんよね。

 だって、そのように頑張って生きている人は自分をしっかり確立しているから、騙そうとしても騙せないんですから。

 会社などの組織ではなく、もっと騙せる人間がいそうなところを探しますよね。

 だから、“彼ら”は、昔でいうネット弁慶になりながら、今日も明日も騙せそうな人をネットで探したり呼びかけたりして、洗脳することしか脳がないと言えるのです。

 

4.自分すら信用できないから

 

 こう書くと大げさですが、要するに「自信がない」ということです。

 のび太ジャイアン症候群ではないですが、ジャイアンは、事あるごとに、自分の持つ腕力を武器にしてのび太をいじめます。

 数年前から、のび太ジャイアンに、それぞれ特性の異なる発達障害ADHD)であるという、司馬理英子氏の著書での指摘がありました。

 “彼ら”含め、のび太ジャイアンに共通する点は

「人間として未成熟」

 である点です。

 もちろん、発達障害の人たち全てが未成熟なわけはありませんし、“彼ら”もまた必ずしも発達障害に該当する訳ではないでしょう。

 しかしこれだけは言えます。

 

 “彼ら”は、自分が情緒不安定でストレスに耐える事のできない、ただの自信のない人間である事を、自分から認めてしまっているのです。

 

 だから、先述したように、人にマウントを取りたがる心理傾向にあります。

 

「今の日本社会は間違っている」

「スーツを着て満員電車に揺られる社畜どもは哀れだ」

「場所や相手を選ばない仕事こそ至高」

 

 彼らは次々に、真理でも何でもない、ただの「言い訳」をします。

 「自分がやりたくないこと」と称して、社会で働いている罪もない人に対して噛み付きながら、自分の弱みを知られたくないがために強がりを繰り返す、という言い訳を。

 ブロガーの中には、「自分のやりたい事リスト・やりたくない事リスト」を作っている人がいて(それだけなら全く害はないのですが)、“彼ら”はそれに加え、ご丁寧に無駄に優越感に浸ったコメントを添えながら人をこき下ろします。

 それって「自分はこれしか出来ませんでしたリスト・したくても出来ませんリスト」の間違いじゃないの……?

 

5.まとめ

 

 個人的に、この情報化社会において嫌でも入ってくる“彼ら”の蛮行に対し反論するに当たって、もっと書きなぐってやりたいという気持ちもなくはないですが

 これ以上書くと、逆に自分の方が相手に対しマウントを取りたがる人間に成り下がってしまう可能性もあるので、ここまでにして、まとめます。

 

・彼らはコンプレックスが強すぎて、人を馬鹿にする事でしか生きていけない

・ただ負け犬のように吠えるだけでたまたまお金が手に入る道を見つけてしまったから、それに味をしめた人

・自信がなく、ある意味かわいそうな人

 

 といったところでしょう。

 

 ツイッターフェイスブック、ブログなどをやっていると、どうしてもこういった輩が目立ちますが

 今のところ、“彼ら”のように成り下がらない方法としては

 

・明らかに自分に害をもたらすと判断した情報は完全無視。その人のページに行ったり、ましてや直接反応したりしてはいけない。

・世の中、生きていく方法がたくさんあると知り、広い視野を持つ。

・自分にとって正しい生き方を常に模索する。人の意見にただ左右されるだけになってはいけない。

・自分の今頑張っている事や人生にしっかりとした自信を持つ。

 

 こんなところでしょうか(小学生でもわかる、当たり前のことですよね)。

 

 今日も、ここまで読んでくださってありがとうございました。

 仕事に戻ります。